第11話 ファルファッラへ


 店長が、鍋を洗いながら、


吉隅よしずみくん。さっき僕ね、あの雑炊に魔法を掛けたんだよ。『おいしくなーれ。おいしくなーれ』って。だから食べられたのかな。いつもの何倍もおいしくなってたはずだからね」


 振り向いた店長が、悪戯っぽく笑った。


「ねえ、吉隅くん。ファルファッラには、いつ頃帰ってきてくれるのかな? 君が弾いてくれないと、店内がシーンとしてて、ま、それはいいんだけどさ。君がいないとね、追加注文が来ないんだよ。追加注文どころか、君の出の日に君がいないとゲストが目に見えてがっかりして、『いないんですか? じゃあ、また』って帰っちゃうんだよ。結構、痛いんだけどな」

長田ながたくん。ダメですよ、そんなこと言って。吉隅くんは、もう弾かないんですから。そうだ。僕が弾きましょうか。遊びで良ければ。日給はいりませんよ、遊びですから」

「それ、請求してるのかな? それとも、言葉通り? 君は、昔から読めない人だからな。ま、日給はともかく、弾きに来てよ」

「いいですよ。いつがいいですか?」


 二人で打ち合わせを始めた。僕は、二人を黙って見ていた。


 それから十日ほど経った頃、店長から電話があった。


「今日ね、先生が来てくれてるんだよ。聞きに来るよね?」


 そんな風に言われたら、行くしかない。二人が来てくれた日から少しずつ気持ちが上がって来て、外出も出来るようになってきていた。もちろん、日によっては落ち込みが強くなることもあるが、随分良くなっていると自分で感じている。


「今から行きます」

「そう。じゃあ、待ってるね」


 いつもの軽い口調で、店長が言った。この前みたいに暗くなっているより、ずっといい。この方が、店長らしい。


 僕は支度をすると、ファルファッラへ向かった。


 店のドアを開けると、スタッフが一斉に振り向いた。そして、みんなが僕の名前を呼んではそばに来て、ハグをしてくれた。みんなの優しさに、心が温かくなった。


「来てくれて良かった。じゃあ、奥の席へどうぞ」


 奥と言うのは、もしかしたらピアノのそばだろうか。そう思ったが、まさにその通りだった。先生は、僕に気が付くと驚いたような顔になったが、演奏の手を止めることはなかった。


 席に着いてしばらく先生の演奏を聞いていると、店長が料理を持って僕のテーブルに来た。僕は、戸惑いながら、


「店長。僕、注文してません。メニュー表を……」

「君が食べられそうな物を、勝手に作って来たから、食べてよ」

「え……」

「あ、それから、今日の支払いは先生がしてくれるから。食べられそうだったら、追加して。いくらでも作るから。どうせ先生が払ってくれるんだし、遠慮しちゃダメだよ」


 僕は、店長が置いてくれた料理を見てから顔を上げ、


「あの……支払いは、自分でします。だって、先生は日給ももらわないで、僕の代わりにピアノを弾いてくれてるんです。その上、支払いもだなんて」

「吉隅くん。先生がそうしたいと言ってるんだから、払ってもらいなよ。それが、今の君がすべきことだと僕は思うけど」


 店長の言葉に、僕は何も言えなくなった。


「じゃあ、ゆっくりして行ってね」


 店長が奥へ入って行くのを見送ってから、僕は料理を口に運んだ。きっとこれらにも、おいしくなーれ、の魔法が掛かっているんだろうと思った。そのことを思うだけで、自然に涙が浮かんできた。


 食事を終えて、店長が持ってきてくれた紅茶を飲んでいると、休憩時間になった先生が僕の向かいに座った。先生は僕を見つめながら、


「本当に来てくれたんですね。良かった」


 先生の、語尾が揺れた。きっと、本当に喜んでくれているのだろう、と思わされた。僕は、何とか笑顔を作り、


「先生。先生の演奏、本当に素敵です。特に、ピアニッシッシモ。弱い音でありながら、芯がある。僕は、あんな風には弾けません」

「弾けないと思っているだけでしょう。と言うか、君。もう弾かないんでしたね。すみません」


 突き放すように、いつもの口調で言う。胸の奥の方を、鋭利な刃物か何かで刺されたような気がした。


 彼がいなくなって、音楽する意味がわからなくなった。でも、本当に僕は、音楽を捨て去ることが出来るのだろうか。先生の演奏を聞いて感動していた僕が、矛盾してるじゃないか、と自分に言う。


 音楽を捨てるなんて、出来ない相談だ。本当は、わかっている。


「宝生くん。はい。君の夕飯、作ってきたよ。冷めない内に、どうぞ」

「あ。ありがとうございます」


 先生の返事に、店長が、ははは、と笑い、


「君は、いつまでも変わらないね。誰に対しても、その口調。ま、君らしくていいけどね」

「この先何年友人やっていたとしても、変わらないと思いますよ」


 先生が、微笑む。が、ふいに真面目な顔になって、僕に言った。


「ところで、吉隅くん。お願いがあります」

「お願い……ですか?」

「そうです。聞いてもらえますか」

「聞くだけなら」


 先生は、ハーっと息を吐き出した後、憂い顔で話し始めた。


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