第12話 先生のお願い
「僕はね、閉店前に必ず弾かれるあの曲、あまり得意ではないんです。それで、悪いんですけど、僕の代わりに弾いてもらえませんか?」
先生のお願いを聞きながら僕は、これは絶対嘘だ、と思った。むしろ得意な曲なのではないか、と勘繰った。
先生は、暗い表情のまま続けた。
「僕は、あの大学では教授ですけれど、当然苦手な曲もあります。それが、あの曲です。
「えっと……それは、軽く脅してますか?」
僕の問いに、先生は、ゆっくりと首を振り、
「君が得意な曲で、僕を救ってほしいだけです。それだけです。脅すなんてこと、僕がするはずないでしょう?」
どうだかわからない。そう思ったが、口には出さなかった。
「弾いてくれますよね」
先生が僕をじっと見ながら言う。僕は、その視線から逃れるように、俯いた。
先生が、これをきっかけにして、僕を音楽に引き戻そうとしてくれているのはわかっている。が、僕の気持ちはどうだろう。どうしたいんだろう。
弾きたいのか、弾きたくないのか。そして、弾けるのか、弾けないのか。
あの日以来、一度もピアノを弾いていない。一日弾かないだけでも感覚を取り戻すのは大変なのだから、これだけ触れていなければ、相当弾けなくなっているだろう。
迷いに迷ったが、僕は顔を上げ、先生に頷いて見せた。そして、揺れる心を押さえつけるように、普段よりも少し低めの声で言った。
「わかりました。弾きます。でも、ずっとピアノに触れてませんから、ちゃんと弾けるかどうか、わかりませんよ」
「いいです。ありがとう、吉隅くん」
僕に微笑むと先生は、ようやく食事し始めた。いつ見ても、食べ方がきれいだ、と感心してしまう。テーブルマナーというものを誰かにしっかりと習ったのではないか、と勝手に思っている。
食事を終えると先生は、口元を拭ってから両手を軽く合わせると、「ごちそうさまでした」と小さく言い、立ち上がった。そして、僕に視線を向けると微笑み、
「では、お願いしますね」
「あ……はい」
決心したのに、また心が揺らぎそうになる。でも、弾きません、とは絶対に言わない。今ここから逃げたりしたら、一生戻れない気がしたのだ。
先生は背中を向けると、ピアノの方へ行ってしまった。ピアノの前に座ると、先生の顔から微笑みは消えた。一呼吸してから、ピアノの鍵盤に静かに手をのせる。
演奏が始まると、僕は紅茶を飲むのも忘れて耳を傾けた。この繊細な演奏をする人に、自分はレッスンしてもらっているのだ。そのことに、僕は喜びを感じていた。少しずつ、心は音楽へと戻っていく。
先生の、美しい調べを聞きながら、僕は、閉店前に弾く曲に思いを馳せていた。
壁に掛かっている時計に目をやると、もうすぐ閉店の時間だった。急に胸がドキドキし始めた。まるで、ここで初めて仕事をした時のようだ。僕が先生に目を向けると、先生は最後の一音を弾き終え、椅子から立ち上がった。そして、僕の前まで来て、
「吉隅くん。そろそろ時間なんですけど、お願いしてもいいですか」
「はい」
先生は口の端を上げて優しく笑むと、僕の肩を軽く叩き、
「それでは、お願いしますね」
先生は、食事の時と同じ場所に座って、僕を見ている。僕は、椅子から立ち上がると、ピアノの前まで移動した。久し振りに見るこのピアノ。僕は、小さな声でピアノに話し掛けた。
「久し振りだね。だいぶ弾けなくなってると思うけど、よろしくね」
椅子の高さを微調整してから、座った。ペダルの踏み込みを確認。深呼吸を何回かした。緊張が高まって行くのを感じていた。
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