第9話 別れ
大晦日のプログラムは、頭の中でだいたい決めていた。ピアノに向かうと、音階練習を一気にやってから、曲の練習を始めた。
ピアノを弾き始めてしまうと、時間が飛んで行く。気が付くと、大抵驚くような時間が過ぎ去っている。
夕方に帰宅してすぐピアノ室に入ったのに、もう十時を回っていた。どうりでお腹が空くはずだ、と納得した。
ピアノ室を出るとキッチンへ行き、冷凍庫を開けた。冷凍ピラフがあったので、それを食べることにした。スープもインスタントの物を準備して、電子レンジのチーンという音を待っていると、ふいに恋人だった人との突然の別れを思い出した。
二人で話しながら歩いていると、角を車が曲がって来た。恋人が僕の腕を引き道路の端に寄せてくれたのに、庇ってくれたその人だけ態勢が崩れ、倒れて頭を打った。左の肩にヴァイオリンケースを掛けていてバランスを崩しやすい状態だったせいかもしれない。
車の運転手が彼の元へ走って来た。彼は、僕を見て笑うと、「大丈夫だよ」と言った。僕は、打った頭を撫でている彼を見て泣きそうになりながらも、
「大丈夫、じゃないよ。病院に行こう。検査しなきゃダメだよ」
必死で訴えていると、運転手さんが頷き僕に同意を示してくれた。そして運転手さんは病院まで車で送ってくれたのだ。とてもいい人だった。
検査をいろいろしてもらったが、結果何事もなかった。ただ、後から何かあるかもしれないから気を付けてください、と言われたと笑って教えてくれた。そして、それが現実になった。
彼は次の日、目を覚まさなかった。そんなことがあっていいのだろうか。
その日から僕は、音楽を捨てた。もう、音楽をやる意味がわからなかったから。僕にとって、音楽は彼だった。彼がいないのに音楽をやっていく意味なんか、どこにあるだろう。
彼の葬儀が終わってから、僕は家を出なくなった。食事もしたりしなかったり。何にも心が動かなくなった。
葬儀から数日過ぎたある日、家のチャイムが鳴った。しばらくは放っておいたが、何度も鳴らしてくるので、怠い体を無理矢理起こして玄関に行った。ドアを開けると、
先生は、僕が「どうぞ」と言う前に家に入り、部屋を見回して大きな溜息を吐いた。店長は、目を見開いていた。二人が驚くのも無理はない。
二人は、僕の部屋が普段どんな様子なのか知っている。出したらしまう、を徹底していて、出しっぱなしなんかしたこともなかった。それがこの時は、脱いだ服がその辺に落ちていたり、スマホすら床に捨て置かれているような状態だった。
「
先生が、当惑したような声で僕を呼んだ。返事をする気力もなく、ただ虚ろな目で先生を見返した。先生は僕に一歩近付くと、ギュッと抱き締めてきた。そして、何も言わずに僕の背中を擦ってくれた。そうされて、少し心が反応した。大事に思われてるんだな。そう感じた。でも、そんな自分を僕は否定した。
「先生。離してください」
「吉隅くん。僕はね、君に生きていてほしいんです」
先生の言葉に、僕は首を振る。自然に涙が溢れて来て、こぼれ落ちて行った。
「生きていてどうなりますか? あの人はもういないのに。生きていて、何の意味があるんですか? 教えて下さい」
泣きながら繰り返す僕の背中を、先生は擦り続けてくれる。
随分と時間が経って、僕がようやく落ち着いて来た時、先生が言った。
「僕はね、君が心配なんです。今生きている君が、心配なんです。わかりますか?」
「わかりません……」
僕は、先生の腕から逃れると、
「すみません。奥で休んできます」
「わかりました。僕も行きます。君が心配で仕方ないんで」
「一人になりたいんです」
「一緒に行きます。いいですね?」
こういう言い方をする時、先生に逆らっても無駄だと知っている。僕は返事をせずに、部屋に向かった。そして、部屋に入ると、ベッドに体を預けた。
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