第8話 電話

 そろそろ開店するというタイミングで、その場を辞した。いつものように店長は、「また来てね」と軽い感じで言い、僕を見送ってくれた。


 どこに行く予定もないので、買い物をしてすぐに家に帰った。真暗な玄関に入った途端、スマホの着信音が鳴り出した。びっくりして、思わず背筋を伸ばしてしまった。


 カバンから取り出すと、画面を見た。先生からだった。僕は急いで通話にして、


「はい」

「あ。吉隅よしずみくんですか。宝生ほうしょうです」

「えっと……わかっていたので出ました。ちゃんと登録してあります」

「そうでしたか」


 出会ってから、何年経つと思っているのだろう。愛弟子と言いながら、信用していないのか、それともいつものからかいなのか。相変わらず読めない人だ、と思った。


 僕は小さく溜息を吐くと、


「それで、先生。ご用は何でしょうか」

「そうでした。用があったので掛けたんです」

「そうだと思いました。それで、何ですか」


 先生との会話は、いつでもこんな感じだ。話が嚙み合わないのが普通だ。


「吉隅くん。昨日の件が気になってしまって。どうなりましたか」

「後で連絡するつもりではいたんですが。結局、やることにしました」

「そうですか。それは良かったです」

「それで……」


 店長に伝えたプランを先生にも話すと、先生は、「え?」と言い、


「それは、どういうことですか? 君はプロでしょう」

「はい」

「僕が遊びで弾くのとは、自ずから違うでしょう。どうしてそんなことをしようと思ったんですか?」


 どうしてと訊かれても、僕にもよくわからない。ただ、そういうことをやってみたいと思った、としか言えない。先生は納得してくれなかったが、


「まあ、仕方ありませんね。君がそうしたいと言うんだから」

「ありがとうございます。当日を楽しみにしていて下さい。店長に、一席確保してもらうように言っておきます。僕から言いますからね」

「わかりました。それで、足の具合はどうですか?」

「急には良くならないって言ったのは、先生です。昨日とたいして変わりません」

「そうですか」


 その声は、悲し気な感じがした。それにつられて、僕も不安な気持ちになってくる。この足首は、ちゃんと治るのだろうか。


 骨折したわけではないし、時が解決してくれるだろうとは思いながらも、焦燥感を覚えずにはいられない。


 僕が黙ったのを何ととったのか、先生は、


「いや。きっと、すぐに良くなりますよ。大丈夫です」


 明るい声で、慰めにかかる。優しいのか何なのか、わからない。それでも、この人を嫌うことは出来ない。出会った頃から不思議な言動をされてきたし、溜息を吐きたくなることも言われてきた。それが、どうして今でも縁が続いていて、しかも告白などされているのだろうか、と疑問に思わなくもない。


「先生。そう言って下さって、ありがとうございます。治るように、ペダルを踏まないで練習しようと思います」

「そうですね。ペダルは補助する物であって、君が手で音をつなげるのが大前提ですからね」


 足首を捻挫した直後にも言われたことだ。僕は、見えないと知りつつ頷き、


「はい。ペダルを踏めないのを言い訳にして、練習をさぼるような真似は、絶対にしません」


 言い切った僕に先生は、


「さすが、僕の愛弟子ですね」


 いつものセリフを口にした。またそうやってプレッシャーをかけて……、と嘆きたい所だが、


「頑張ります」


 そう伝えて、通話を切った。


 部屋の電気を点けてカバンをソファの上に置くと、真っ直ぐピアノ室に向かった。


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