第2話 雑炊

 席に着いて、メニューを見る。新しい料理もあるが、ある料理のところで目が止まった。僕は目を上げて、先生を見た。先生は首を傾げて、


「何ですか」

「これ見たら、思い出してしまって」

「これ? どれですか」


 先生に訊かれて、僕は指を差した。先生は、「ああ」と納得したように言うと、


「あの時のことを思い出したんですね」

「そうです」

「そうですか」


 先生の目が、優しく僕を見ている。慰めるような、労わるような、そんな眼差し。いつも僕をからかってばかりの先生が、時々そんな表情をする。そして、そんな目で見られた僕は、心が温かくなる。傷ついた心を包んでくれているみたいなのだ。


 その料理は、雑炊だ。僕が、大切な人を亡くして何もかもが嫌になっていた時、僕の家に来た店長が作ってくれた。その優しい味が、口の中によみがえる。


 店長とともに来てくれた宝生ほうしょう先生も、また、優しい。僕のことを本当に心配してくれて、僕を音楽に引き戻してくれた。先生がいなかったら、僕は今どうしていただろう。考えるのは難しい。


「先生。あの時は、ありがとうございました」


 僕は、真剣な顔で先生に言った。言わずにいられなかった。先生は、「いいえ」と言った後、


「それより、何を食べるか決めないといけません。君も知っている通り、閉店時間が迫ってるんです」


 言われて、初めて気が付いた。もうあと三十分もしたら、閉店時間になってしまう。慌ただしいお疲れ様会だ、と思った矢先、店長が僕たちのそばへ来て、


「宝生くん。そんな、吉隅くんを慌てさせるようなこと、言ったらダメだよ。吉隅くん。安心していいよ。今日は、時間で閉店して、その後僕が一人で君たちの料理を作るから。いくらでも注文していいよ。どうせ、宝生くんが払うんだから」

「ま、そのつもりですけど」


 とりあえず、急がなくていいことがわかったので、ホッとした。僕は、店長を見ながら、


「今、雑炊を見て、昔を思い出していたんです。そう。あの時のことです」

「ああ、あの時。君、あの雑炊をすごく褒めてくれたよね」

「だって、おいしかったから」


 視線を外した。涙が浮かんでいるのを見られたくなかったのだ。僕は俯いたまま、


「雑炊、お願いします」

「え? それでいいの? もっと、お腹に溜まるものの方が良くないかな? 一仕事してきたんだし」

「雑炊がいいです」


 僕が尚も言うと、先生が頷き、


「じゃあ、僕も雑炊を」


 店長が、大きな溜息を吐いた。そして、「はいはい」と言いながら頷くと、


「わかりました。雑炊二つ作ります」


 店長が奥に入っていくのを見送ってから、僕は笑い出した。先生は眉根を寄せて、


「君、何を笑っているんですか」

「何だかおかしくて」


 ははは、と笑っているのに、何故か涙がこぼれてくる。あれから、もう五年。そんなにも時間が過ぎたのか、と呆れるような気持ちだ。


 僕は、突然恋人を喪ったその日のことを思い出していた。 

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