第3話 恋人

 恋愛対象が同性だと気付いたのは、中学の頃だった。ほのかな憧れ。そんなようなものだったけれど、異性にそういう感情を持つことは、今まで一度もなかった。


 音大に入学してすぐ、またそんな気持ちが訪れた。入学式で総代をやった、ヴァイオリン科の学生。すっと背が高く細身。少し茶がかったサラサラの髪。誰とでも楽しそうにしていて、笑顔がすごく良かった。


 彼の伴奏は彼女がしていたのに、僕にやってほしいと言ってきた。彼と合わせてみて、僕も一緒に演奏していきたい、と強く思った。


 結果、僕は彼の伴奏者になった。彼と演奏することは、本当に楽しかった。


 いつからか、彼の方でも僕を好きになってくれていた。夢のような出来事だった。


 恋人になった僕たちは、夏休みに入ったら二人きりでどこかに出掛けよう、と話していた。それなのに……。


 またその頃を思いだして、憂鬱になる。つい俯いてテーブルをじっと見ていると、僕の髪をそっと撫でる感触があった。目を上げて、正面にいる先生を見る。先生は、少しも笑わずに僕を見つめていた。


「先生……」

「君は、頑張りました。僕が一番よく知っています。だから、そんな顔しないでください」


 するなと言われてこの感情を押さえつけられるものならば、そうしたい。でも、そう簡単には行かない。


 もう五年。まだ五年。


「先生。僕、頑張りました。先生と店長と……いろんな人に助けられて、ここまで来ました。感謝してます」


 涙を流しながら告げる僕に、先生は首を振った。僕が、その意味を問うように先生を見ると、


「僕の方こそ、感謝しているんです。吉隅よしずみくん。戻って来てくれて、ありがとう」


 先生が僕の髪を、くしゃっとやると、


「そろそろ料理が来ますかね。急にお腹が空いてきました」


 少しおどけたように、言った。僕は小さく笑って、頷いた。


 ちょうどその時、店長が料理を持って現れた。店長は微笑みながら、


「お待たせ致しました。特製雑炊でございます」


 店長の言葉に、僕は目の前に置かれた雑炊を凝視した。どこがどう特製なんだろう。


「あ。吉隅くん。特製の意味を考えてるんだろう。どこが特製かって言うと……」


 店長は雑炊に手をかざすと、真剣な顔つきになり、


「おいしくなーれ。おいしくなーれ」


 いつかの呪文のような言葉を口にした。僕はハッとして、店長を見た。店長は、ニコッと笑うと、


「……という魔法を掛けておきました。だから、特製」


 泣けてきた。僕を救いに来てくれた日、店長は同じことを言っていた。


 おいしくなーれ。おいしくなーれ。


 その日の情景が目に浮かんでいた。と、先生が顔をしかめ、


長田ながたくん。今日は、吉隅くんがオケと共演した素晴らしい日なんです。泣かせるのはやめてください」


 優しくして僕を泣かせていた先生が言うことかな、と思ったら、笑ってしまった。店長も笑い出し、


「ごめん、ごめん。じゃあ、ゆっくり味わって食べてね。追加注文も大歓迎」


 店長は、僕たちの席に断りなく腰を下ろすと、


「さ、食べてよ。冷めないうちに」


 僕は、いただきます、と小さく言ってから食べ始めた。今日も心と体を温めてくれる。ほっこりした。そんな僕を、店長は黙って見ている。見守ってくれている。そんな感じだった。


 雑炊を食べ終わると、何だかもっと食べたくなって、先生と相談しながら何品か追加注文した。デザートも食べた。


 十分満足して、いざ席を立とうとすると、店長が、


「吉隅くん。大晦日、暇?」


 一応プロのピアニストなのに、暇かどうか訊かれ、ちょっとへこんだ。店長は首を振ると、


「ごめんごめん。言い方が悪かったみたいだね。その日、うちでコンサートやってくれないかな、と思っただけなんだ。君を傷つけるつもりはなかったんだけど」

「傷ついてはいません。いませんけど……」


 僕は深呼吸をして、頭を切り替える。


「ここでコンサートですか?」

「そう。やってよ」

「ちょっと考えさせて下さい」


 即答は避けたが、やってみたいという気持ちでいた。店長が、僕の肩を軽く叩くと、


「そうだ。久し振りに、あの曲弾いてよ。先生が苦手な曲」

「それは、いつも弾いていた、あの曲ですか?」


 僕があえて質問すると、店長は笑顔になり、


「もちろん。君が今思っている、その曲です」


 僕は何も言わずに立ち上がると、ピアノの前に立った。その鍵盤を見ながら、「久し振りだね。よろしくね」と、囁き声で言う。


 椅子の高さを微調整して腰を下ろすと、ショパンの『別れの曲』を弾き始めた。

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