第31幕.『美と悲しみのゲシュタルト』

 長い睫毛が、微かに震えた。気づかれないように頬に落とされた唇の感触に似た柔い何かの気配で、麗人は呆っと目を覚ました。曖昧な口づけの正体は分からないまま、目を覚ますつもりがなかった早朝に目眩を覚えて動けない。ベッドに横たわったままで、麗人はぼんやりと、睫毛の長い目を半分伏せていた。明眸は図らずも、何かを睨んでいるような鋭さになっていたが、麗人が見ていたのはカーテンの隙間だけだった。青みを帯びた眉目は秀麗であるが、眠っていたかった朝が終わった誰かの気まぐれを責めるような視線をしていた。カーテンの隙間に切り取られた夜でも朝でもない倦怠が覗いている。麗人は昨日の憂鬱を引きずっているような美貌をしていた。美しさが微塵も損なわれていないことが、眠りが連れ去らなかった業念の陰惨を際立たせていた。

 浅い眠りに麗人はやつれていた。内臓が冷えなくて、眠った気がしない。残ったのは皮肉な気分だった。深部という臓物が冷えないから眠れないのは、やはり眠りが死の兄弟であるからなのだ。麗人は笑った。笑ったつもりだった。唇の端が痙攣を起こしただけの自嘲。


「誰だい…………?」


 誰もいない寝室に、麗人は問いかけた。返事がなくて、自分が寝呆けていることを確かめただけに終わった。また声にならない自嘲を溜め息のようについて、麗人は身体をひねった。うつ伏せになろうとして、無駄に伸ばした片腕が床頭の花瓶にぶつかって倒してしまった。

 硝子が割れる音と、水と薔薇が絨毯の上に撒かれたことを悟りながら、麗人はしばらく花瓶の惨劇を無視して、シーツをむしっていた。眠りという束の間の死が不足していることを、凄絶に優美なる睚眥を含んだ睫毛が語っていた。眠り足りない美貌からは、死が匂い立つ。無気力な睨みと色味のない唇。痛みに呻きを噛むようなうつ伏せの硬直は、生活から浮き溢れた者が持つ独特の倦怠が蟠っていた。

 麗人は枕元に落ちた薔薇を一輪、シーツの波をまさぐって掴みとった。薔薇をとった左手を、だらりとベッドの下に投げ出した。何もしたくなかったのだ。人生に飽きている手は薔薇を怠惰な魔法の杖みたいにして掴んだまま、花の部分が床に触れている。薔薇は今にも、首が折れてしまいそうだった。麗人は暇を持て余す魔法使いのように無意味と戯れていた。

 やがて無意味と遊ぶことにも食傷して、麗人は仰向けに戻った。薔薇は持ったまま、空いている右手に手鏡を掴む。鏡に写っている自分の美貌を見て、麗人は無責任なことを思った。


(僕の顔って、暮らしていくのが面倒な顔だよね……)


 同意するような相手は誰もいなかったが、麗人は問いかけるような独り言を口の中で呟いた。薔薇の花を下唇に乗せて、ルージュを添えるように、赤い花びらを薄い唇に噛んだ。それから麗人は、どうして自分がこんな顔に生まれついたのかを考えた。考えて、また暮らしていくことを面倒に思った。美しさが過ぎると、生きていくことが面倒になるのだった。麗人は美貌について考えることをやめた。生活が窒息しそうになる気分だった。

 麗人は、自分を揺り起こしたのが誰だったのかについて思い巡らせた。夢魔の訪れにしては、控え目な優しい口づけだったのだ。唇に添えた薔薇を無意識に優しく噛むことをして、愛し合うことのない愛を薔薇に捧げては、時間を無益にすることだけをした。


(僕が美しいのは、僕の問題ではないんだ)


 怠惰な姿さえ完全な姿で、麗人は肚裏で呟いていた。

 自分の美が過ぎるのは、麗人ではなく世界の課題なのだと、酷薄な影を瞳に落としていた。麗人が横を向くと、一方の肩と胸から寝巻きのガウンがはだけ落ちる。その無防備に横たえた身体は、完全無欠の無防備であった。匂い立つような白い肌を、例え今激しい弾雨が襲ったとしても、この麗人を貫くことはできないのだ。美を纏っていれば、麗人が怯えて眠れないものなど存在しない。

 美しさの過ぎるあまりに忘れないといけない生活のために、麗人は眠らないといけなかった。過剰な美に伴う深い悲しみのゲシュタルトが、崩れていく音を微睡みの中に聴きながら。眠っているときは、美が麗人を離さなくても麗人は美を忘れていられる。

 麗人は美しい自分を忘れていたかった。床で割れている花瓶のことは、もう忘れていた。麗人は薔薇に口付けて、瞬くことをしないまま煌びやかな絶望に眠りを妨げられていた。

 美を怠けてみたところで、どうせ自分は美しいのだ。

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