第30幕.『呪われた瀉血』

 沈黙している扉があった。暗がりの中、足元だけを点々と照らす、間接照明の赤光。その残滓が赤黒い闇の中に蟠りながら、ただの扉を不気味な色にしていた。ほどけた赤光は、闇との親和性が高くなっていた。扉はまるで、炎と暗がりに飲み込まれているようであった。内側から、鍵穴がたてた小さな音がした。鍵がかけられた音だった。闇の中に消えていくような扉は、施錠されるとそのまま園先にある空間ごと外界からは不可侵の存在になるような危うさがあった。

 続いたのは機械的な施錠音の連続である。写真を、連写してとるようなときの間隔で音が駆け抜ける。施錠、施錠、施錠、施錠、施錠──部屋は内側から、何重にも鍵をかけられる。病的に神経質な拒絶に似た、鍵を幾重にもかけ続ける音。暴かれてはならないものが、扉が闇に消える幻想だけでは足りなくて、周到に「不可侵」を作り出す……

 ──神経質な鍵の山に鎖された部屋の中で、麗人は物憂げに首を傾けながら、安楽椅子に腰掛けていた。とても狭い部屋であった。麗人が一人で過ごすために誂えたような、それも一人での過ごし方に明確な目的が存在していることが空気に漂っている。ゆったりと座れる椅子と、点滴台。それから奇妙な針と管、茎を長めに切られた薔薇の花が一抱えほどの数、麗人の足元で大きな花瓶に飾られている。

 無防備な時間が始まろうとしていた。攻撃をされたら即刻終焉を迎えるほど脆弱にならざるを得ない、自己嫌悪の時間。

 誰のことも介入させない。誰も鍵の在り処を知らない。そもそも此処を閉ざす鍵はない。鍵のことは、誰にも教えていない。

 愛せない時間は、一人で過ごしていたかったのだ。麗人は詰襟のシャツの袖をまくる。血管の隆起した腕は逞しいが、一度も日光にさらされたことがないほど白い肌色をしていた。麗人は腕を台に固定して駆血帯を使うと、消毒液で撫でた腕の内側に、針を刺した。容赦ない手つきで、狙いを定めた血管に太い針を沈める。血管に針が届くまでの痛みに切れ長の明眸を細め、長い睫毛がいっそう物憂げな影を青い瞳に落としていた。だがそれも一瞬のことだった。針が血にありつくと、痛みは分からなくなる。麗人は椅子の背もたれに体重を預けて、深く息を吐いた。指先が痺れている。何もない天井を見上げて、何かを睨むような目をしながら、息を吐くことだけに集中していた。点滴が繋がれている機械が動き出す。機械は何も寄せつけないような、不吉を編み込んだ音を吐き出している。誰も来られない場所でなお、拒絶を表現していた。

 麗人の足元にある薔薇の花瓶に、点滴とつながる機械から伸びているもう一方の管が続いている。口の広い花瓶には、すでに奇妙な水が張られてた。水を撒いて簡単に掃除ができるタイルの床に置かれた花瓶の傍らでは、茶色い硝子の薬品瓶が砕けている。薬剤はもう入っていないらしい。汚れたラベルに何か書いてあったが、海老茶色の赤みが文字を塗りつぶしている。

 機械が動き出した。麗人の血を、ゆっくりと抜いている。透明な管の中を、赤黒い静脈血が通う。麗人は椅子にだらりと腰掛けて、腕を置いたまま脱力していた。血を抜かれながら、物憂さを感じる痛覚さえ持たぬ者のように、過ぎたる美にぎらりとした睫毛をしどけなく伏せていた。涙が流れる気配があったが、麗人は無表情だった。抜かれた血が薔薇の花瓶に流れているのを、眼球だけを動かして見下ろしていた。生きた心地のしない落涙を聞きながら、自由な右手で横分けの長い前髪を掻き上げる。血の気が消えていく額と、険しくなるばかりに秀麗な眉目に影を塗りながら。管から落ちる血の滴りに耳を傾けては、薔薇の花瓶に赤い波紋が広がる。喉に詰まるような蟠りがない血液からは、何の匂いもしない。乾き切った死よりも静謐としている赤からは、おぞましい香気が朽薔薇めかしく揺らいでいるだけで。麗人は薔薇が喉を上下させる幻聴を聴いていた。

 流された血は、奇妙な生き方をしていた。尋常ではない瀉血の量だった。血は淀まない。血は凝らない。麗人は暇そうな手つきで、消毒液の傍に置いてあった薬品瓶を掴んだ。無造作に、中身を血溜まりに注いだ。麗人の血はいつまでもさらさらとしたまま、鮮やかに赤黒く薔薇に安らぎを与えていた。美貌からは益々、血の色が消えていった。白く、白く、白く。通う血が引かれて、死が肌の内側から命の匂いを白で上塗りしていく。希薄になっていく全て、掠れることさえない美だけが、他のものを廃された肌から凄絶に匂い立つ。

 唇の端が、ぴくりとした。殆ど痙攣だったが、麗人は笑ったつもりだった。怠惰でありながら自分を守るものは何もなく、また他にすることもない時間に於いて、笑うくらいしかすることがなかった。斜めに切られた茎で血に浸かった薔薇が、血を吸い上げて赤黒くなっていく様子を見ていたのだった。吸血性の薔薇を見つめる悲しみよりも青い瞳には燃えるような嫌悪が闇となり、薄い唇は青ざめて呪いのように低く笑っている。赤みを増していく薔薇の食事を愉快なもののように見ている切れ長の目は、全く力が入っていない。それにも拘らず、夜の海を漂う魔物めいた色をした虹彩は、血の気をなくしてもなお見つめた相手を殺してしまう気迫があった。息をしているだけで誰かが死ぬ暗がりを、美のうちに養っていた。

 美と、美を巡らせる血が、堪らなく嫌になる時がある。美しい自分に疲れた時の儀式。過ぎたる美のために右も左も分からなくなる前の自制。過剰な美を運ぶ血液を、愛せる形にするために、必要な時間。

 好ましくない仮面を被った時間は、煌びやかさが燦然とするためだけに必要だった。美しさが顕然な権力であることを「光の美」と表すならば、絢爛たる暴力を支えるこのおぞましき頽廃を「闇の美」として、麗人は美の暗がりをも喰らい尽くす。目に映る美が、誰の目にも激情の形で華やかに咲くように。二つの美は飲み干されていた。薔薇ではなく、麗人によって。美が含む正負、どちらかだけを選ぶような真似を、麗人はしなかった。正負は共に美であり、どちらも受け入れることで麗人の完全主義は成立していた。完璧ではなく、完全がそこにあった。

 血を吸い上げる薔薇が美々しくなるほどに、消えそうだった口元の痙攣は壊れた笑い声になっていた。

 完璧主義を超越した完全主義。麗人は、美と、そうではないものを平等にする。全ての正負の本質が本当は同じもので出来ていることを、思考酵素を以て消化し、平等にする。光のために働く昏(くら)い力を飲み込んでしまう。その食事が、この一連の呪われた瀉血だった。

 眩いだけの美など、総じて虚構なのだ。麗人は安楽椅子の背に、だらりと首を折った。何の含みもない低い笑いが、何も偽ることをせずに唇の端から滴り落ちていた。受け入れ難く愛せない時間の激痛。それでも麗人は拒まない。自分を除いた全てが等しい境地に酔いしれるためだけに。戯れを掴もうとしたわけでもない指先が、無為に空気をかすめていた。薬剤の瓶に触れたと思うと、落下した瓶は砕け散った。麗人の意識は混濁していた。血を啜る薔薇は血を啜ったまま。機械が止まる。最後の血の一雫が落ちると、麗人の意識は焼き切れた。

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