第32幕.『麗人の首』
──その交錯は、無音の斬首に似ていた。
滑らかで鋭い刃が、首に、斬られたことを悟られないような、そんな鮮やかさだった。
麗人は夜の繁華街を歩いていた。ダークスーツにの上に羽織った豪奢なファーコートを夜風と覇気でふわりとさせていた。オペラ座から帰ろうとしていたのだった。正装なのは、観劇のためだった。すでに醒めた高揚の残滓を吐息に乗せて、麗人は夜の威容を纏いながら、大股に歩いていた。帰ったら、本を読むか戯曲の続きを書くか。考えていたのはそんなことだけだった。雑踏の中で、夜のざわめきの中で、ひしめいている人影に紛れている時間を、麗人は真人間のような美貌で歩いていたのだった。
不穏なものとすれ違ったのは、そんなときだった。誰かと、人混みですれ違うときの感覚と何ら変わりはなかったが、麗人は冷たい感覚を全身で感じ取っていた。誰もが自分だけの姿と状況のみをみていることを良いことに、麗人はいつもの色眼鏡をかけていなかったので、覚えた不穏に長い睫毛を瞬く。そのまま麗人は奇妙な気分のまま数十歩歩いたが、やがて何かの質感が消えたのをはっきりと感じ取った。人で溢れた繁華街で立ち止まり、辺りを哨戒する。秀麗な眉目が、険しくなっていたかもしれない。違和感が酷かった。しかし、麗人は自分が何に違和感を覚えているのか分からなかった。
怪訝に思って、麗人は左手で頬に触れた。何かを訝しむときに、麗人がよくとる仕草だった。
(あれ)
麗人が何気なく頬に触れたと思った指先が、そのまま空を薙いでいった。手のひらは、何にも触れなかったのだ。麗人の頬は、なくなっていた。頬どころか、首から上が、頭が、何処にもないことに、麗人はすぐに気がついた。麗人は、自分と反対方向へ歩いていく無数の人影を、眼球のない目線で追う。麗人は、直感的に呟いていた。
(盗られた!)
自分と逆方向に進んでいく人間が何人いるのかなど、分かったことではない。麗人は羽織っていたファーコートの要素を崩した。構成要素を練り直して、フードのある黒いマントに変えると、麗人は無くなった頭部をフードで覆って、元来た道を急いだ。
麗人の頭を泥棒した人物を探すことよりも、自分の頭部の気配を探すほうが早いとみた。麗人は歩いてきた道を戻りながら、自分の覇気と瘴気を辿って、頭部を盗んだ何者かを追った。夜だったのが、幸いだった。麗人は夜に紛れて繁華街を離れて、空気の淀みに人の気配が薄まりゆく温度を感じながら、自分を探した。
自分の気迫を近くに感じたとき、邂逅は思っていたよりも寂しく訪れた。雑踏を抜けてしばらく進んだ裏道に入ると、白いマントを着た人物が、麗人の頭部を抱えてぼんやりと道端の長椅子に腰掛けていた。
他人が自分の頭を抱えている様子を、麗人はしばらくそのまま見つめていた。少しだけ、面白かったのだ。だが、白い人物、麗人の首を盗んだ人物は途方に暮れているみたいにしょんぼりしていた。盗んだのはその人物なのが確かなのに、責める気持ちになれないくらい、わびしい様子で佇んでいる。
泥棒の悄然を見つめるのに飽きてきたところで、麗人は白い人物に声をかけた。少し距離は置いたまま、こういう状況は今までに前例がなかった故、何て切り出すのが正しいのかは、いまいち確信がなかった。麗人は、白い人が抱えている頭部を指差さないで、訴える。
「それ、僕のなんだけれど」
麗人に気がついた白い泥棒は、長椅子から立ち上がった。それから泥棒とは思えない穏やかな口調で、丁寧に詫びる。
「申し訳ありませんでした。美しかったものだから……つい、盗ってしまったのです」
出来心であって悪意はなかったことを丁重に説明すると、泥棒はその出来心という言葉を免罪符にするつもりがないのか、もう一度麗人に謝った。
「すみませんでした」
「何処で持っていったの?」
麗人が興味本位で聞くと、白い泥棒は馬鹿正直に答えた。
「オペラ座から出てきた貴方を尾行していました。持ち去ったのは繁華街の人混み、一番交錯の多い場所です」
「ふうん」
「役者の方だと、てっきり思って……でも、持ち去った貴方の首を見てわたしは慄(おのの)きました……美しい方、麗しき方、貴方は何を生業にされているのですか?」
「僕?」
麗人はきょとんとして、思わず意味のない感嘆を返した。泥棒をされているのは自分の方なのに、丁寧な職務質問をされている状況がよく分からなかったのだ。自分に他者の悲しみがわからないことから、麗人は自分だけの応対手引書を頭と心に持っている。誰の心での踏みにじることができる冷酷を隠すために真人間を装うための仮面として、日々上書きしている「状況別応対手引書」にも、さすがにこのような状況や、示された感情に的確に返すことのできる反応方法は記載されていなかった。
麗人は少し考えてから、自分には仕事としていることがたくさんあったので、一言で仕事内容を説明した。
「僕はね、美しいことが仕事なの」
「そうですか……役者の顔に、このような覇気と美は住むことができないですから、役者だと思ったことが間違いだとは思ったのですが」
白い泥棒は続けた。
「この美しさでは、あまりにも過剰が過ぎている。役者を天命には与えてはもらえないのでしょう」
「そうなの?」
麗人は少し肩を落としたが、白い泥棒は気づかない。白い泥棒は神妙な口元のまま、淡々と、まるで麗人そのものに併せて概念について語るような口調呟いた。
「美しい方、麗しい方。貴方の美が預かる金の、途方もないこと」
麗人はこの白い泥棒が死神ではないかと最初は疑っていた。しかし、
少し考えてみれば分かることだった。麗人を狙う死神であったならば、首を奪うなどということはしない。直に命の方を狩りに来るはずだ。麗人は今更、首泥棒に尋ねた。
「君、名前はあるの? 何ていうの? 僕に教えてよ」
白い泥棒はまた丁寧に会釈をした。物を奪うような人物ではないことを語る所作だった。
「掏摸(すり)と、申します」
「掏摸、か。覚えておくよ」
掏摸は麗人に、麗人の首を返した。
あの掏摸は、自分と似た概念だ──麗人はそう考えながら、離れ行く掏摸の背中を見送った。自分の首を、掠め取ったのだ。概念や現象を盗む者である。麗人もまた、美による暴力で概念を間引くことができるからである。
麗人は頭を首の断面に乗せた。美しい、オブジェのように切り離されていた美貌が、元に戻る。
「よかった」
麗人は落ち着いた気分で、苦笑したのであった。
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