第27幕.『ルージュの剣気』
繁華街の明かりの群れを、夜の天井から見下ろす闇の裳裾が、殺伐とした風に翻る。鍔の広い闇色の帽子、庇の下で怜悧な青い目が、長い睫毛の宝飾に彩られて悲しみを湛えていた。高い空の上で、夜を飛ぶ黒蝶の煌めきに燃えながら、麗人薔薇柩は夜の威容を羽織るが如き黒色のマントを、風に躍る黒緑の長い髪と共にはためかせて、街の苦味を誰よりも敏く神経に伝わせていた。身体は微動だにしないが、麗人の神経は汚れと穢れに悲鳴をあげていたのであった。そろそろ涙腺が、血を流す気配があったのだ。鼓膜が自壊を始める痺れがあったのだ。麗人は耐え難き夜の最も高い場所で、得物を携えた腰に左手を伸ばした。瞬間、小さな擦過音が、薄い刃物の鋭さで弾けたのだった。それは果たしてナイフだったろうか? 誰もその瞬間を、そのときのことを、知る由もない。ただ抜剣と同じ動作で弾かれた鞘のようなものが、地上に群がるガス灯の光の集まりに落ちて消えた。月光を撥ねた艶めきは赤い。斜めの切り口を携えて、麗人は闇を蹴り込むと、地上の光の中へ飛び降りた。
地上の喧騒の中にいた者の中で、一番に目に止まったのは、大口を開けて笑っている女だった。汚い笑い声に他人への誹謗中傷を乗せた旋律が、度し難く汚れたものとして、鼓膜に爪を立てたのだ。麗人は風よりも速く女を通り過ぎた。交錯の一刹那、女の唇に斬撃が走った。続きなどいくらでも放てると言い出しそうな勢いがあった女の言葉は、その語気と共に斜めに切り落とされて、断面から滑り落ちる。倒れた女の唇は、斬られて赤い──だがその赤は、血ではない。
麗人が見舞った一撃の斬戮、言葉を断ち切った麗人の手のあったものは、ナイフではなくルージュだった。目が覚めるような深紅は、一人の穢れた女を裁くと、女の唇を斬り裂いた分だけ短くなっていた。倒れた女は内側から生じた自らの醜悪に体内を伝播されて不気味な痙攣をしていた。
麗人は繁華街の淀みの流れに逆らって突進した。穢れた言葉、汚い話題、醜い話に笑い歪む唇……
過敏になっている視覚と聴覚が、四方八方から入る悪しきものの位置を識別する。麗人は剣を繰るときと同じ激情で、自らを二つに分離していた。そして一方を斬って捨てていた。夜に溶けながら、麗人は美に姿を変えていた。醜さを知るためだけに、美に感覚を委ねていた。切り離した一方を捨てる、激しい分離感に頭が割れそうだった。それでも麗人は、美であることでしか醜さを識別できない状態を必要としていたのだった。美であるからこそ、麗人は自分と異なるもの、即ち、美にあらざるものの質感を肌に伝わせては、そのざらついた気迫の主を、その唇を無差別にルージュで斬り続けていった。
淡々と執行される処刑、裁かれていく「美にあらざるもの」、魂という美の仮住まいにあるまじき姿。赤い濃密が滑りさると、人々は慄えて倒れていく。気づきという死を迎えながら。人々を裁いていたのは麗人が振るう美ではなかった。斬戮の手を止めない麗人は酷薄な眦をしたまま、美に姿を変えていた。だがその手にある得物、人々の唇を裁き続けていたルージュは、美ではなく醜悪という名の斬撃だった。
美醜は、定義することが酷く困難な概念である。だが、醜さの方は、美しさよりも定義することへの難易度が下がる。美よりも醜悪の方が、定義ができる。全ては美の仮住まいであり、美が住まうのに相応しくない在り方を、はしたないと、醜いという。
麗人のルージュ、その剣気に裁かれて醜さを知った者たちは、その汚れのおぞましさに倒れ、慄えることしかできない。そして、容姿の良し悪しは気に止む心は本当に汚いものを恥じることをしないために、ルージュに斬られて暴かれた自らの内側に耐える力も直視する気概もない。迫る美の魔の手に誰一人感づくことなく、麗人はその心の悲鳴をルージュの刃に宿しては斬り捨てた。死屍累々の繁華街の明かりが虚しくなる頃、女に声をかけて無視された風情の男が、最後に麗人の目に止まった。気に入らなくなった女を殴ろうとしたその男の口に、擦り減った最後のルージュを、刀身ごと突き刺した。
いつの間にか、繁華街には夜が落ちかかってきていた。麗人は虚脱したような白皙の美貌で、静まりかえった闇の中で自分の呼吸だけを聞いた。
処刑されるような罪で咎められたとて、何かが変わることはないのである。法は魂を裁けない。魂の更生はできない。
醜悪だけが美を知る天啓をもたらし、美しさがあってこそ醜悪に価値は発生する。横たわる錯乱が、最早ぴくりともしなくなったのを麗人は静かに見下ろしていた。価値観を恥じるという更新の激しい熱量が、まるで憎しみを燃やした後のように、熱の影を妖しく漂わせていた。
「むしゃくしゃしたんだ……」
麗人は誰に問われたわけでもないのに、苦々しく呟いた。安酒を飲み干した吐息のような声で。
「汚ければ……誰でもよかった」
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