第26幕.『十字架と地平線』


 建物が何もない、綺麗に均された黒い土の地面が、何処までも続いていた。何処を向いても、地平線の果てはない。広大な柔らかい土が、砂漠のように気が遠くなるほどの深遠まで広がっている。

 土には、十字架がいくつも突き刺さっていた。乱雑に、柔らかな土を穿っている。まだ十字架が刺されていない土の上を、誰も乗っていない農耕機が走っていた。誰も引いていない農耕機は、黒い土を攪拌して平らにすることだけを仕事にしていた。農耕機が無言で通り過ぎた一瞬、掘り起こされた土から誰かの頭蓋骨が覗いたが、すぐに土に隠れてしまった。

 働き者の農耕機を眺めることに飽きて、麗人は再び土の上を歩き出していた。麗人は、死が眠る土地を歩いていた。黒の長外套のポケットに入れていた左手を出すと、レンズの青い色眼鏡のブリッジを押し上げて、様々な十字架が並ぶ平地を見渡していた。姿は既になかったが、誰も乗っていない働き者の農耕機は、他の場所にもいるらしい。土を攪拌して、骨を潰しながら平らにしている音が何処からか聞こえてくる。

 麗人は此処には誰もいないことに、放念の悠揚といった風情でのんびり歩いていた。枯れた呻き声を想像しながら、まだその死という事実に湿度がある骨の、

肌色をした匂いを感じていた。酷薄な眦に、いつもの険は不思議と無かった。不安定なものが何もない場所にいるからか、麗人は長い睫毛を妖艶に佇ませる時間の揺らぎにさえ哨戒も傲慢もなかった。

 渇く途中にある死が、たった今も踏み締める土の下から、麗人の美に欲情する気配があった。あだっぽい蟠り。だが所詮、埋もれた死には変わりない。死には、伸ばせる腕はない。麗人はただただ平たいだけの土地を、そこの地主のように、暇を持て余して歩いていた。

 嘆きがまだ、涙であった頃の話。死者たちが葬られる前までは、嘆いて流す涙があった頃。思いと心、そして、死ぬことをのものに貴賎があった。死ぬことと、死。麗人にとって、この二つは、同じ部分を持ちながら、ある瞬間までは違いがある事象だった。死ぬことまでは、身分や財産による力でその事実を飾り立て、貴賎の差を表現できる。だがその装飾が効くのはせいぜい弔いの儀式までで、死になってしまえば、冷たい土の下で、尊い血も、卑しい血も、ない交ぜになる。

(僕の分、あるかな)

 麗人は平たい土地を徘徊しながら、自分の十字架と墓碑を探していた。たまにすれ違うのは誰も乗っていない農耕機だけなので、訊ねる相手もない。ただ自分自身に問いかけて、答えが返ってこないことを答えにしながら、自分の名が刻まれた十字架を探していた。


(僕は、死ぬのかな)


 この十字架の土地が平たく何処までも続いている理由は一つしかない。この土地には死が眠っていて、死は世界でただ一つの平等だからである。

 この世でただ一つの平等。平等であることは美しい。この世界は丸くなどなっていなくて、何処までも直線でできている。死、以外に、誰もに等しく降り注ぐものが現れない限り。


(死は美しい、貴賎を超えて誰もに与えられるもの……なのに、死を願うことが悪とされる理由が、僕には分からない……)


 生まれたもの全てに必ず持ち物として与えられる、誰かの悪意や意地の悪さ、或いは渡されることを過失で忘れられてしまうこともない死。誰でも、分け隔てなく受け取れるもの。真実の意味で差別も区別も知らない死は、美しい。その美しい死を、自ら希(こいねが)うことが忌まわしいとされる理由が、麗人には分からなかった。死は美しい概念なのに、望むことは何故、責められねばならないのか。一度神に従い、心を委ねた信仰の日々を断頭台にかけた麗人は、無神論者になる資格があった。神に信仰を捧げたことがある者だけが、捨て去る信仰を持ちうる故に。聖書を読むことに飽きた頃から、麗人は希死念慮が悪とされることについて、暇があると考えていた。

 細い顎に手を添えて、麗人は考えながら黒い平等の地を踏んでいた。


(僕が仮に自ら死んだとして、僕という個人はそこで命が尽きても、僕の価値観と正当性は世界に勝利する……自裁は、世界への反逆になるのだろうか……)


 死くらい、自分を抱きとめてくれなければ、困るのは自分なのだ。自らを、自らの美を世界の意思とする故に。麗人は何とも等しくなれなかった。

 死を願うことは、本来ならば崇高なことなのだ。死を思うことは、生きているということだ。死の瞬間にだけが、生きていた時間に意味をつける。死ぬときに訪れる最後の知識が、自分の生が何たるかということである。

 麗人はふと、薔薇が絡み付いた十字架の前で立ち止まった。墓碑銘は刻まれていなかったが、石の内側から、文字が浮き出ていたのである。まだ、苗字の部分しか読めなかったが、麗人はその文字を見つめて、色眼鏡を取った。薄手の革手袋に包まれた長い指先で、文字をなぞる。自分の名前の、匂いがした。

(僕は誰よりも)

 他の誰よりも激しく残酷に美しく終焉を迎える運命と宿命に彩られた麗人は、死の力を信じきれなくて、切れ長の目を飾る長い睫毛を伏せた。悲しみよりも青い瞳に落ちた鋭い影は、麗人の下瞼にまで闇を塗っている。信仰を捨てた時と同じ苦味と退屈を反芻しながら、麗人は挑発するように目に蔑みを込めたままだった。

 死は、この薔薇の血と宿命を、他の死と等しいものにできるのか。

 死は、この美しさを、他の美しくないものと同等にできるのか。


「それくらい……してもらわないと、困る」


 麗人は外套の端を翻した。殺伐とした風を指先に引っ掛けて、横分けの長い前髪を掻き上げる。薔薇が絡み付いていた十字架からは、浮き上がっていた文字が、嘘のように消えていた。

 血を、身分を、権力を、ありとあらゆるくだらぬものを、等しく挽いてくれる死が、果たして自分にも正しく注がれるのだろうか。この限りない美の呪いから、解き放ってくれるのか。

 麗人は美しいことに、疲れていた。

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