第28幕.『鏡の住人』

 愛してくれるの。

 殺してくれるの。

 僕を? 貴方を?

 一体誰を?


 久しく呼ばれていなかった名前を、呼ばれてみても振り向けない。

 何を以て、自分は自分なのか。だが、その考えに何の意味があるというのか。

 耐えがたい自問が歪む空間を落ちていく。気持ちの悪い、浮揚感──


 ほとんど呻きのようだった呟きと、同じ形に口を開いていることに気がついた。眠りに耐えられなくなった夢の中で、嘆いたことと同じ苦悶のまま、麗人は目を覚ました。這い出るように起き上がると、冷え切った燭台が置いてある方の闇に向かって切れ長の明眸を細めた。酷い眼光をしていた。睚眥の擦過音で闇が瞬く。燭台に刺してあった蝋燭が視線の放った光のみで炎を灯した。手が届かない距離にある炎の揺らめきが、中途覚醒によって悽愴な青白さを塗る下瞼に、長い睫毛の闇を落とした。麗人はしばらくの間、何かに取り憑かれたように炎の中心を凝視していた。それから、ようやく起き出して、燭台を掴んで寝室を出る。

 痛みがあった。美貌は甦った死者のような、自らと自らの美を定義していない状態にあった。千々に刻まれた夢が滴らせる血の激痛を抱く様は、白皙の美貌からいっそう肌色を奪っていた。麗人は夢遊病者のように廊下を歩いた。行き先は決めていなかったが、自分を救ってくれる皮肉を探していることは確かだった。

 昏い廊下の突き当たりで、麗人は鏡に出会った。麗人が出会うために誂えられたような鏡だった。麗人自身が、鏡を此処に掛けたのだった。手元の炎の光で照らされた美貌が、映っていた。誰の目にも美だと解析される光と素粒子の集合体が、病的な妖しさで、長い睫毛を半分伏せていた。救いになる皮肉と同時に、眠りも探しているような顔をしていた。白皙の麗貌からは色彩が遠ざかるのに、青い激情は凄艶に滴っている。

 麗人はいつも見ている自分の顔に、吸い寄せられるようにして、鏡に近づいた。自分の姿を忘れているみたいな空気が、風のない廊下を去っていった。麗人は炎に溺れている鏡に映る自分を、美しいと思うと同時に、醜い何かを感じていた。

 麗人は今一人の自分に、心許ない声で問いかけた。しかしその目は、凝然とぎらついていた。

「僕の名を……知っているかい……?」

 答えはなかった。鏡の麗人は、悲しそうにしていた。他の誰かが見れば、それはただ一瞬の、翳りだったかもしれなかった。それでも麗人の目には、その翳りが悲しみであることを識別できた。

 麗人は燭台を持っていない右手で、鏡の中にいる今一人の自分の肩を抱いた。血の通った指先が、冷たい何かを感じていた。麗人は愛しい者にそうするように、鏡の中の自分に口付けた。鏡像の悲しみに、耐えられなくなって。自分だけが分かればいい悲しみを救済する外傷を、今一人の、美に嘆く自分に与えていた。そして麗人もまた、冷たい唇に触れながら、救われることをしていたのだった。とろりとした視線が、薄い唇の上をなぞりながら行き来していた。長い睫毛の陰惨な影を落とした瞼は曖昧に、美を睨み続けている。


 僕を救う皮肉は何処にある?

 貴方は僕を、助けてくれる?


 麗人は言葉を発することも、考えることもしていなかった。

 鏡に映る自分に、悲しみよりも青い瞳の淀み一つで問いかけていた。

 左手から燭台が滑り落ちる。炎が鏡面を滑り落ちて、蝋燭の消えた寂しさが一条になってかすめ、ほどける。鏡は燃えていた。麗人を切り離した境界線となっていた鏡面が焼かれて、境目が溶け出していた。麗人は炎に爛れる鏡の中に、腕を伸ばした。燃え盛る炎への恐怖はなかった。熱を感じないまま伸ばした、指の長い、白い手。鏡の中の麗人もまた、麗人と同じように腕を伸ばしている。切り離された自分の一面と一面が、奇妙な悲しみを湛えた睫毛をしたままで、その頬に触れていた。

 悲しんでいる美貌を見つめたまま、疲弊に引き裂かれた美貌を可哀想に思った。美貌がくたびれて見えるというのは、身体が疲れていることよりも、哀れなことに思えたのだった。麗人は溶けて波打つ鏡の中で、認識ができなくなった空間の中で、今一人の麗人と、美しい指先を絡めあいながら手を取り合っていた。曖昧な倦怠のままに、憂鬱な細さで開かれた酷薄な目を閉じることはなかった。麗人と麗人は、薄い唇を重ねていた。そこにある妖美な禍々しさは、不思議と自然な存在感を放っていた。切り離した一面と一面が、空間に続いて美醜が、認識できない抽象度に変わる覇気が匂い立つ。麗人と麗人は激痛を覚えながらも、同じ美貌に痛みの表現は一切なかった。棘に裂かれるような激痛だったにも拘わらず。唇に薔薇を、唇に棘を、受け入れあっていた。

 麗人の、正負。切り離されたものたちにとって、もう一方にある自分を受け入れるのは、激痛なのである。

 棘は、薔薇の醜さではない。妖艶な花だけが、薔薇の美しさでもない。


「愛してくれるの」

「殺してくれるの」

「僕を?」

「君を?」

「「一体誰を?」」


 麗人は瞳の陰りと睫毛に宿した残酷だけで語った。


 君は僕であり、君は僕のことを知っている。

 僕が救いを求めていて、何から救われようとしているのかを今はまだ知らないことも分かっている。

 生きていくことがつらいことなのか、僕が分かっていないことだって。

 僕は君が辿った不遇や離死別、絶望のことを知っている。そしてそのことは、君自身も知っている。


 言葉を発するためだけに、唇が離れたのは同時だった。

 麗人と麗人は、このときはじめて『同じ内容の、違う言葉』を与え合った。


「「君は」」


 僕を救うのは、今の僕よりも、強く美しい僕だけ。

 僕が麗人たる所以は、美醜を切り離さず、裁くことをしないため。


「醜い」

「美しい」


 今一度深い口づけを交わした薔薇は、互いを取り込むと同時に消滅した。

 その後にはただ、誰もいない暗がりに薔薇の香りが蟠ったのみであった。酷く神聖な覇気を、そこに残したままで……

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