第18幕.『何処へも行けないこの場所で』

 鋭い足音の残響が、何処までも何処までも長く、放たれていた。一瞬前に放たれた足音は響いているにも拘らず、何処にも撥ね返らずにまっすぐ遠ざかる。続く足音も、先へ行った足跡の笑い声を追いかけるように、不気味な声を立てながら闇の先へと吸い込まれていく。かつて、笑い合って遊んでいた存在の匂いはない。あるのは闇と、闇を透かすことに慣れた明眸、亡霊のように揺れる燭台の炎だけだ。

 硬い床を歩いている時に感じるのは、都会的な場所を歩いている時の靴に響く感触に似ていたが、少なくとも今は、この場所は都会ではなくなって久しかった。

 麗人は手にしていた三叉の燭台を、魔術のようにゆらりと振った。炎が歪に躍ると、眩惑された闇が瞬く。壁のくぼみにあった蝋燭立てに、手前から奥の方へと続く空間に向かって、炎が乗り移る。割れた細い灯りが、死にかけている虫の羽音のような音を立てて眩くなることと消えることを繰り返す間に、壁の蝋燭には次々と炎が灯っていた。炎は麗人が歩いていた道の、先が見えないほど遠くへ去っていった足音の残響を追いかけている。

 構内には錆び付いて薔薇に絡みつかれている車両が、忘れられていた。白線の内側に立つと、麗人は長い睫毛を瞬いて、深淵でも覗き込むように、わずか数メートル下の線路を見下ろした。血でも浴びて乾いたように、赤茶く錆びた線路が、藪のように生茂る薔薇の中にかろうじて覗き込める。麗人は首を巡らせて、天井から吊るされてはいるが半分落ちかかっている看板を見た。

 麗人の現在地は、地下鉄道遺跡だった。魔都の地下は、穴だらけだった。人間の内臓のように奥深く存在しているが、死者の腐敗とは異なる朽ち方で、今は横たわっている。

 麗人はホームに設置されていた古びた椅子に座った。背もたれがない、五人ほどが掛けられる椅子だった。ひび割れて止まっている時計と、誰の予定にも関与することがない時刻表、誰かの人生を運ぶことができなくなった汽車が、全てに忘れられて、また全てを忘れて佇むことだけをしていた。何処へも行けないことは、死に似ていた。心が安らぐような、終点めいていた。此処が始発かもしれないと言うのに。

 過去の遺物でありながら、未来の忘れ物みたいな皮肉が、足元だけに凝る闇の中を静かに這っていた。麗人は反対の線路を見やった。未来の文明が置き忘れた汽車の車両が二つ、ぶつかって止まった姿のままで薔薇に侵されていた。止まった時間を餌にして、薔薇だけが今を生きている。

 麗人は何処にも繋がらない時間の呼吸音を聞き取ることだけに集中していた。闇を斬り裂くのに慣れた眼光が、青薔薇の花びらのような虹彩に燭台の炎を撥ねて、

剣よりも鋭い。闇に消えている線路の向こうに視線を射って、麗人は自問する。

 何に時を費やすことが、正義なのかと。

 魔都が一つの薔薇だとしたら、この乾いて朽ちた臓物は、今は何も主張しない血管であり、血脈の強さを眠らせている気配がある。薔薇が、生きているものを逐って廃する力が、眠りをしろしめしている。闇の色には、浅い眠りに見る夢のような朧ろがある。

 静寂。自分の呼吸が聞こえる。寂寞の中で微笑んだ薄い唇の哀しみが響くほどに澄み渡る闇に、無粋な喧騒も醜いものもなく、在るのはただ蟠る薔薇と、美という力で構成される麗人の存在のみだった。死者になった気分は、日頃吸い込んでいる空気がもたらせる、麗人の汚点にもなれない煩わしさを消し去るのだった。

 麗人は椅子から立ち上がると、羽織っていた長外套の端を翻した。炎の揺らめきと共に。


「何処に行こうか、何処へ行こうか──何処へも、繋がらない場所から」


 思いを馳せる白い美貌は、杳然と彼方を見つめている。哀愁を噛む睫毛の影から投げられた視線は、物理的で具体的な場所を見ているわけではなかった。

 ──此処は本当に、何処にも繋がり得ない場所なのか。

 麗人はひらりと線路に降りた。コンクリートの割れたホームに響いていた足音は、未だ何かにぶつかって戻る気配はない。道を探して、麗人は自分の足音をなぞり始めた。

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