第17幕.『きっと寂しい愛の話』

 これは何の物語なのだろう。揺れる炎が囁いていた。

 これは何の涙なのだろう。これは寂しい、愛の話だ。


 薔薇庭園(ゴレスターン)は燃えていた。時計の針が高速で振れる深更の闇の中で、潤いが存在しない、渇きに飢えた都は炎の時間を迎えている。都が死の眠りについている、水のない場所での禊(みそぎ)が都市を浄める時間を、麗人が住まう薔薇王の住処だけが取り残されていた。麗人は、屋敷の中から外を眺めていた。硝子の向こうの景色は、炎によって歪んでいた。麗人は左手の手のひらを窓硝子に置いて、しばらく炎を見つめていたが、そのうちに飽きて夜が残っている部屋の中心に戻っていった。薔薇に埋もれた、部屋に。

 ずっと眠っていた。眠っていたら、夜が来ていた。気がついたときには、外はすでに焼けていたのだった。麗人の寝室には、赤い薔薇が咲いていた。壁から、床から、天井から。何を苗床にしているのか分からない、何処に根を張っているのか分からない薔薇が、咲き乱れていた。寝室は、麗人が眠る前までは、ただの寝室だったのだ。目が覚めたら薔薇に塗れていた。

 麗人は濡れた長い睫毛に、そっと触れた。悪い夢を見た記憶があった。とても悲しい気持ちで目を覚ました。記憶があるのに、内容が思い出せない。悲しいことだけが顕然な影を残した、浅い眠りにうなされて、起き上がることができなかった。

 麗人は薄いストールを羽織って、鏡に近づいた。映る美貌は、頬がやつれて見えたが、美は損なわれていなかった。殺伐とした青い目の光が、眦の険が、青白く幽鬼のように闇を刷いている。

 麗人は鏡に顔を近づけた。権力的な美貌と、夜闇の炎が映っている。美貌があまりにも悲しそうに佇んでいたから、腑に落ちない悪夢が蟠るままに嘆くようだったから、麗人は映っている自分の唇にそっと口付けた。美貌は硬い表情をしたまま、慰みの中で曇っている。麗人が口付けた鏡は、鉄が溶ける温度の灼熱に触れたかのように流れ出したと思うと、真っ赤な薔薇に姿を変えて、麗人の足元にばらばらと落ちた。

 麗人は額だけになった鏡の縁を掴んだ。もう誰も何も、麗人を見つめてはいない。麗人は狂気のように問いかける。

「愛してくれるの? 殺してくれるの? 僕を? 君を? 一体誰を?」

 床からまた一輪、赤い薔薇がおぞましい速度で成長して、麗人の気も知らずに咲いた。麗人は鏡の縁を掴んだまま、うろになった鏡の中に何かを見ていた。何処かへ行けそうな空洞は、覗き込むには手頃な闇であり死であった。

 見つめていた鏡の空洞から、蔓薔薇が伸びてくる。縁の向こうは壁でしかなかったはずが、麗人が見ていた杳然とした場所から薔薇が咲き出す。麗人は顧みていなかったから気づいていなかった。部屋の中にはもう、これ以上薔薇が咲けそうな面積が残っていなかった。それにも拘らず、薔薇は空白から、宙に苗床があるかのように誕生を繰り返す。天井が薔薇で満ちていたから、鏡の枠から薔薇が咲いて部屋に入ってくる。贈り物のように。

 麗人は薔薇をむしった。食べようと思ったのだ。零れた溜め息を拾うように無益なことをしたかった。唇が、燃えるように、熱い。麗人が薔薇を食べようと口元へ薔薇を運ぶと、薔薇は唇に触れた途端に溶けてしまった。激情に焼かれたように。

 薔薇は麗人の吐息を浴びただけでも溶けて崩れていった。溶けたチョコレートのような柔らかさで、蜜のように濃く芳醇な匂いが、どろどろと麗人の手を汚していった。首先から手のひら、手の甲に向かって、とろりとした赤が流れていく。どの薔薇を取っても、結果は同じだった。触るだけで薔薇は崩れて溶けて、息がかかれば炎が燃え移り、唇で触れた花びらは蒸発した。

 麗人は汚れた指先で、口元を押さえた。薄い唇を、腥い色をした甘味が滑る。血を飲まないと生きていけないのに、上手く血を飲み込めない吸血鬼のような哀愁があった。

 麗人は長い睫毛を伏せた。曖昧な角度に開かれた隙間のない睫毛が、本物の血で濡れていた。外が燃えている間に、泣いてしまおうと思った。

 憂鬱にも堕落した気分にも、美はすがりついてくる。美は麗人を愛している。ゆえに、美は麗人が愛するものを赦さない。悲しくなっても醜くはなれなくて、麗人は虚脱した美貌で天井を仰いだ。部屋中に咲いている薔薇は、悲しい夢をみたあとに現れたものだった……

 麗人の手は溶けた薔薇と血の涙で汚れていた。指の長い美しい手は、暗澹さえ溶かしてしまう妖気に冴えていた。荒れることも傷がつくような仕事も知らないような、それでいて死を強いられた命の汚れだけは浴びてきたような指先が、禍々しく、唇をなぞった。

 麗人は笑った。薔薇に汚れた指先で、青白い美貌を覆って笑った。自分の声が頭の中で乱反射して、目の前がぐらぐらした。

 悲しみの数だけ咲いた薔薇を、哄笑で以て麗人は嘆いた。美は何も赦さない。愛を享けていた唇さえ。優しさを添えようと咲いていた薔薇の群れをも。

 これは寂しい、愛の話だ。

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