第14幕.『悪辣な炎』

 その揺らめきが、光に擬態した淡い闇であったことに気がつくと、麗人は夢から醒めた。淡い、思い出の、闇の中から。

 薔薇庭園(ゴレスターン)はまだ炎に包まれていた。業火の勢いの向こうに、かすかな暁闇が見える。吐き気がして目を覚ました。都は死に包まれていた。ベッドの中の麗人はシーツに包まれながら、額に落ちる長い髪を一房、指先で払った。麗人の美貌は、青白さよりもおぞましい色褪せ方をしていた。それでも美貌に、美しさに一点の曇りもない。ただ、不快を訴える何かが、鋭い眦の険をより殺伐とさせていた。目を覚ましたばかりの姿ではなく、まるで害意を持って何かを殺した後の虚ろな喜びを睨むような目だった。薄い下瞼が、長い睫毛の影を青く落としていた。

 喉の奥に、苦い夢の気配がした。麗人は身体を起こす。吐き気が激しくなる。唇の端から嫌な予感が血を滴らせる。目眩とともに、麗人は倒れ込んだ。ベッドの上に、紙が落ちるような悲しく静かな音だけを立てた。枕に爪を立てるが、否応なしに炎の味は喉を迫り上がる。一秒の静寂ののち、胃は痙攣した。

 硝子細工のような指先を、とっさに口へ当てがった。庭園が炎に抱かれる清い時間に、麗人が吐き出したものは血と、血に塗れた薔薇だった。吐瀉された直後の血は血だったが、シーツや枕に滴ると、血痕は全て薔薇の花びらになった。麗人の内側で蟠っていた死が、散らばっていた。

 麗人は声も音もなく、押さえた指先だけを生々しく赤で汚して、薔薇の死骸を吐き続けた。麗人が吐き出しているものは、濾過されて処理された醜さだった。誰もに現実や幸せを忘れる必要があるように、麗人は現実の淀みを幻想の中に吐き出す必要があった。

 食事に似た嘔吐だった。醜悪を美に変える酵素を持っているかのように、血を吐いて花びらに変える麗人は凄絶な横顔をしていた。青く冴えた眼球は物憂げであるにも拘らず、色が消えた下瞼に落ちる睫毛の影は陰惨な業念に疲弊していた。痩せた顎の線が、現実にあるひとの造形とは永劫に相容れないほどの美しさを際立たせながら。

 麗人は、疲弊してもなお傲慢と違う美を失うことをしない美貌で、時折窓の外を見上げた。弱くなる炎が早朝の近さを感じさせるのに、さめざめと泣くように薔薇を吐き続けた。誰の目にも触れない解毒の儀式は、落涙よりも高貴だった。涙の方が生々しく嘔気を誘うに違いなかった。

 外が静かになっていく。薔薇庭園が廃墟になろうとしている。麗人は痛みを感じることとは違う削れ方をしながら、朝を待っていた。廃墟の朝は、遠かった。

 美が有り余るゆえに、麗人は取り込んでしまった醜さを濾過して排出する必要があった。食べることは必要がないのに、誰の吐き気も誘わない乾燥した儀礼は必要だった。究極の防衛である嘔吐を、麗人は冠のように厳格な存在にしていた。

 ただ、指に残った血は生々しいままだった。吐き気を誘わない赤い吐瀉物で、口を押さえた指はどろどろに汚れていた。薄い唇も、薔薇のように。麗人は指にどろりと絡みつく血を見て、粘り気を加えられて燃える悪辣な炎のようだと、何となしに思ったのであった。

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