第10幕.『はじまっていた失楽園』

 黒い巨城を囲む広大な薔薇庭園の片隅に、庇のある小屋があった。薔薇の花壇に囲まれたカフェテラスのような佇まいの場所に、屋外用のテーブルと、一人分の席がある。麗人は薄手のストールを羽織って、雨の匂いがする風に吹かれながら、硝子のカップに瓶を傾けていた。ワインにしては色濃く、血液にしては黒みのない液体が、静かに注がれる。結わいていない黒緑色の柔らかな波を打つ髪を一房、ピアスの穴に穿たれた耳にかけて、麗人は赤い液体に口をつけた。薔薇の大樹が、麗人の居場所を隠すように咲く庭の片隅は、あまり手入れが行き届いていない。故に、麗人が一人になりたい時にこそりと足を運ぶ場所になっていた。庭の手入れをしている従者さえ、此処には滅多に入らない。麗人は繊細な硝子細工のような指先を白い頬に添えた。雪花石膏よりも白い美貌、哀愁を漂わせる長い睫毛の奥で、深海色の瞳が昏い青を闇のように蟠(わだかま)らせている。他者の心を奪うことに慣れていて、気持ちを攫うことを何の悪とも思わない明眸は、凛々しく鋭い。

 麗人は頬に寄せた指を、薄い唇に滑らせた。手袋をしていない、節と節の間隔に完璧な均整がとれている長い指が隠れていないのは、書き物をしていたためである。誰もいないときの作業では、手袋をしない。利き手の左手、その薬指には、寂しい愛の聖像が遺って、麗人の心を噛んでいたのであった。テーブルの上には書きかけの戯曲と、途中まで音符を置いた楽譜、それから年季の入った万年筆が置いてある。紙が風に運ばれないように、紙の山には手帳が置かれている。

 歌詞のない歌のメロディーを口ずさみながら、麗人は傍らの小瓶を手にとっていた。中身は薔薇と林檎の蜜を精製してつくったシロップが入っていた。長い時間の集中を経て、少しだけ、甘いものが欲しい頃だった。麗人はグラスの中の赤い液体に、特別な糖蜜を一雫垂らした。落ちていく甘みを、ティースプーンで手早く混ぜる。

 テーブルには瓶の他にも、皿の上には林檎がいくつも、静物画のように置かれていた。薔薇の木から漂う高貴な香りよりも、ふくよかな甘みが仄かに佇んでいる。麗人は林檎を一つ、手に取った。麗人は頽廃的な気持ちを喚起するほどに長く憂鬱な睫毛を、傲慢な目をしながら半分伏せていた。そして林檎に、そっと口付けた。淡い香りを吸い込みながら、報われない愛を想った。報われることのない、受け取られることのない愛というのは、一体何処へ行くのかと、寂しさの行方を想った。

 ナイフを手に、麗人はさりさりと林檎を剥いていった。無駄がないように赤い皮を剥いて、実の部分を綺麗に切り分けると、辺りを哨戒する。誰の姿も近くにないことを確かめてから、麗人は用心深く林檎を口にした。食が細いことが、誰が見てもすぐに分かるような食べ方であった。食事を取ることに対して、嫌悪感を持っているかのような食べ方だった。食事の時間は無防備にならざるを得ないために、麗人は哨戒を忘れないのである。麗人にとって食欲は、最も気色悪い本能であった。食べているのか吐いているのかよく分からない不快な気持ちになっているうちに、林檎は胃の中に消えた。いつしか冷たい雨が、ぽつぽつと庇にぶつかる音が聞こえてくる。

 薔薇の樹海から、何かの気配がそっと顔を出したのはそのときであった。麗人が林檎の最後のひとかけを食べようとしたとき、花壇の中を迷っていたのか、灰色の子うさぎが麗人を見つめていた。麗人は一瞬、とても幼い表情になった。異性も同性も魅せて何もかも奪うような魔性の引力を持つ美貌が、あどけなくなった一刹那。麗人は音を立てないように椅子から立ち上がって、警戒されない範囲まで進むと、しゃがみこんで子うさぎを手招いた。


「おいで、僕は怖くないよ」


 すると子うさぎは、ぴょこぴょこと麗人に近づいてきた。麗人は慣れた手つきでうさぎを抱くと、椅子に戻って膝の上に子うさぎを置いた。ふと、残っていた林檎の存在を思い出す。


(林檎、あげてしまおうかな)


 手を伸ばしたところで、麗人はふと手を止めた。林檎を与えてしまったら、この子うさぎは野原に戻れなくなるのではないかとよぎったのである。麗人は止めた手は伸ばしたが、つまんだ林檎は自分で食べた。何処までも、愛のかけらも気紛れも報われない自分に、麗人は悲しい可笑しさを禁じ得なくて、一人で苦笑したのであった。

 雨の匂いは確実に冬を運ぶ匂いを、空気の中に溶け込ませていた。風邪をひいてしまいそうな気温差が、麗人の秘密の場所にも迫っていた。麗人は壊れ物を抱きしめるように、子うさぎを抱いて額を撫でていた。子うさぎは時折麗人の腕の中から動いて、テーブルの上にある林檎を見たりしていた。麗人は指先でうさぎの耳をふにふにと触った。


「林檎はあげないよ、あれは、僕のだもの」


 林檎は、失楽園の鍵なのだ。

 朽ちた色の花壇。貪婪に荊棘を伸ばす、薔薇の樹木の影。此処は自分の敷地で所有物なのに、不思議と麗人の居場所にはなってくれない、寂しさの片隅であった。自分の愛を報いてくれるものが何もない世界は、麗人の失楽園だった。禁断の果実よりも、芳しい薔薇の海に包まれて溺れていた。

 麗人は抱きしめた子うさぎに呟いた。子うさぎは麗人の腕の中でふわふわしていた。


「ねえ、雨が止むまで、此処にいてくれないかな」


 温もりに対して麗人が払えるものは、寂しい愛だけであった。儚い小ささには雨宿りの時間が、自分には温もりが平等に注いでいた。冬の始まりを告げる曇った寒気と共に。何となしに浮かんだ疑問は、寂しいあまり、美しいもののような黄昏色をしていた。

 麗人の失楽園は、とうに始まっていた。麗人が美という名の罪深い力と引き換えに楽園を逐われたとしたら、この腕の中の温もりに何かを願うことで、小さな命を不幸にするのではないだろうかと、漠然とした不安に目眩がした。麗人は椅子の背に体重を預けた。目眩が酷くて、自分の力で姿勢を保つことが難しかった。悲しくても、長い睫毛はいつものように、傲慢に瞬くしかできなかった。

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