第9幕.『雨の死骸と鎖された唇』

 麗人が買ったものは、傘ではなくて、薔薇だった。

 青いレンズの色眼鏡に、夕闇の涙が滴る。鋭く美しい、長い睫毛に縁取られた明眸が、眦の険をぴくりとさせる。指先だけが露出した手のひらを暗い空に向かって開くと、ぽつぽつと、小雨ではあるが、雨が降り始めていた。緩く横に結わいた黒緑色の長い髪、目にかかった横分けの前髪を、麗人はそっと指先で払う。厳つい色眼鏡のレンスの下で、深海色の瞳が、寂しい雨を見つめていた。さめざめと流す涙にしては、あまりにも静かな雨であった。

 麗人は散歩に出ていたところであった。その日に済ませるべきことを終わらせて、城の敷地を出て街へ来たところであった。弱い雨は突然のことであったが、少しくらい濡れて帰っても悪くないと思えるような、そんな静寂が肩を濡らして、足元で撥ねていたのだった。傘を持っていない雨の黄昏は、水彩絵具を淡く溶かしたような闇の帳が、濃淡を描きながら波打つような空をしていた。

 曖昧な雨に濡れながら、麗人は宛ても無く街を歩いていた。そのうちにすれ違う傘の花が増えていった。枯草のような色をした傘を差して歩く人々と交錯を繰り返した。麗人は、傘の代わりに、赤い薔薇を一輪買った。

 傘のない雨の黄昏に無益でしかない薔薇を携えて、麗人は散歩を続けた。雨は酷くなっていった。薔薇は差せないから、麗人は薔薇の茎を摘んで、傘の柄にそうするように持っていた。雨は激しくなっていた。傘を差している人の姿さえ、まばらになっていく。麗人は時折、薄い唇に薔薇の赤い花びらを、紅をさすように戯れに乗せていた。

 レンズが濡れて景色は潤いに爛れていた。麗人は色眼鏡を外した。悲しみよりも深い青の瞳に、リュテスの街が寒々と映った。晩秋が冬のはじまりに噛まれる音が、聞こえてくるようであった。夜が早く、朝が重い冬の始まりを、冷たさを増す雨が告げていた。長い睫毛が雨に濡れて、偽りの涙のように、頬を零れ落ちる。 白皙の肌、凛として彫りが深い眉目、細く高い鼻梁、歯並びの美しい前歯と薄い唇。誰の目に映ろうと美しさとして認識される顕然。主観的体験と客観的事実として網膜に焼き付く美貌の名は、誰も知らない。

 濡れた肩が重くなるにつれて、身体は疲れを感じていた。麗人は傲慢な疲労を噛み殺すように、傘にはなれない薔薇を咥えた。唇を拘束しなければ、自らが持つ美が美しすぎることへの疲弊を、言葉にしてしまう恐れがあった。麗人は城の方へと踵を巡らせる。雨が激しく、湿った睫毛が重たかった。

 城の敷地に入る頃、麗人は虚無を無益に費やすことばかりを考えていた。青い明眸は、何かを凝視しているようで、何も映してなどいなかった。深海に零れた溶剤が、絶世の青をほろほろと溶かして、ほどけそうなさざ波を立てていた。

 麗人は薔薇の茎を咥えて傷ついた唇から、血を滲ませていた。薄い唇の痛みを指先がなぞろうとしたとき、麗人は何もない場所で濡れた石畳に靴底を滑らせたのだった。雨の露地に転倒して、薔薇を咥えたまま。疲労がどっと押し寄せてきた。


(疲れた、な)


 傲慢であることを宿命づけられていることに食傷していた。美しすぎることへの疲弊は、美しくない者に話すと嫌味だとしか捉えてもらえない。金も身分も権力も、持ち合わせていない者には分からない重さがあるように、美もまた然りと麗人は思う。理解されないことを言っても、疲れるのは燃えるように美しい自分の方であるから、麗人は薔薇を咥えたのである。

 美しいか、美しくないか。全てはこの二択で決まる。別に他者を醜いと思う機会もないのであるが、麗人は長い時間、自分以外の人々が凡庸なことを不思議に思っていたものだった。本当は誰一人凡庸なのではなく、麗人だけが美という異形に生まれついていただけであったと、気がついたのはいつであったか……

 美しすぎる容姿と宿命に、麗人は疲れていた。だから雨に打たれながら、いつまでも雨が弾ける露地に横たわっていた。人生に倒れ、敗れたままで動かずに、這いつくばっていたかった。それなのに、麗人は気まぐれを起こしてしまったのである。もう少しだけ、生きてみようか、と。今思えばその気まぐれさえ、世界の悪意のように思えた。

 血を滲ませる唇から、血色が消えていく。紫がかっていた薄い花びらは、生々しさに欠けた白っぽい色になっていた。それでも薔薇は咥えたまま、言葉に鍵をかけている。

 雨に振られているのに、流れる雨で真実の涙の軌跡さえ嘘にできるほどなのに、美貌は渇いた感傷にひび割れるような危うさを面状に漂わせていた。濡れた睫毛が、眠りにつく直前のように心地よい重さをしていた。眦の険が、何かを諦めたような怠さで物憂げだった。小雨はいつしか、驟雨となっていた。石畳を穿つような激しい雨は、無粋な音を殺戮した。何も、聞こえない。

(僕は、傘を買って帰るべきだったのかな)

 麗人は雨の中で横たわっていた。死骸のように横たわっていた。神聖なもののように動かなかった。力が抜けて唇からこぼれた薔薇が、雨に浸された石畳の上に、静かに投げ出された。麗人は薔薇を見つめていた。深淵のような瞳は、雨に穿たれる世界を真横に映している。慈しむように薔薇に手を伸ばし、麗人は薔薇に触れた手を石畳に置いたままで動かずにいた。そんな姿さえ、麗人が演じれば額縁に閉じ込められた重厚な絵画である。美が過ぎるあまりに日常の匂いを漂わせることができなくて、交われない世界を嘆くように、麗人は半分だけ目を閉じていた。帰る城はあるのに、行ける場所が無いのはどうしてなのかと、音のない闇の中で想った。

 何処へ行こうか。何処へ行こうか。もう、少しだけ──

 麗人は上手く息ができない者のように、吐くことに神経を尖らせた。凍えた肺胞を汚す日常の汚濁を細く浅く吐き出す。今一度目を開くも、眦の険は過ぎたる美しさへの慨嘆で、誰も分かってはくれない想いに対して睚眥を射るような恐ろしい眼が凝然とするばかりであった。

 もう少しだけ、醜いことの、真似をさせてはくれないだろうか。

 失うものは全て失ったと、麗人は自負していた。戯れるだけに留めるべき魔物である美だけが、雨にそそがれることを拒んで、厳かな死者のように動かない麗人を、いつまでも愛していた。

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