第11幕.『溶けゆく薔薇獄』

 麗人を取り囲むようにして、薔薇は咲いていた。使命感に満ちた鋭さを含んだ棘が、大輪の薔薇の間に間に悪意ともに隠れていた。麗人は擦り切れた黒い襤褸(ぼろ)に、高貴なその身を包まれて、長い睫毛を瞬いた。気分が落ち込むような、悲しく軋るような旋律が、何処か分からないところから流れているのが聞こえていた。

 麗人は身体の内側がぞわぞわと落ち着かない奇妙な感覚を、嫌な予感のように思いながら、感覚から目を逸らして、上を見た。荊棘が何かと複雑に絡み合って構成された籠の、内側にいる──麗人が察するのに、時間は要らなかった。此処は、牢獄で、自分は、囚われている。

 薔薇は、一体何に絡みついて複雑を保っているのかが気になった。幸いなことに手足に自由はあったので、麗人は薔薇の柵に近づいた。長い睫毛の先が、見つけた光景に対する感情を、無言のうちに語っていた。麗人が荊棘の柵に指先を引っ掛けると、爪先が触れたのが音楽であったので、どう瞬いても傲慢にしか見えない気高さを放つ睫毛が、珍しく驚きに揺れたのだった。

 牢獄の骨は音楽で構成されていた。昏い葬送曲のメロディーが乗った五線譜が、麗人の周りを螺旋状に回っている。螺旋を描いている悲しみの歌を骨子にして、薔薇を持つ荊棘が縦に伸びて歔欷の音楽に絡みついている。五線譜に刻まれた曲は回転しているだけであったが、楽譜に絡み付いて咲いている薔薇が、蓄音器のように歌っている。恐るべきことに、旋律が牢獄をつくり、牢獄に咲いた薔薇が葬送曲を歌い、昏い歌声が神聖な響きで厳かな奇妙を奏でながらその場所を聖域にしていたのだった。まるで、忌まわしいものを閉じ込める場所のように。


(それにしては……随分と洒落ているけれど)


 麗人はつと指先を下ろして、虚ろな青い目に長い睫毛の影を落とした。白さが際立つ眼球の中で、抉って持ち出されそうな輝石めいた悲しみ色の明眸が、虚脱の奥に暴れている飢えに怯えていた。血を啜る異形が、血を摂取しないと命の危機が迫っているときと似ている恐怖だった。魂と自我が攫われるような危機感が、心のうろの中で暴れはじめていた。ぶっつりと意識が焼き切れる前に訪れる、精神の不在……どうして自分は、此処に閉じ込められているのであろうか。

 陰鬱な葬送曲に鍵をかけられた牢獄に、美しいものは麗人の他になかった。皮膚の裏側を這う気持ちの悪い感覚に、じっとしていることが難しくなっていく。麗人は自分の内側ですでに猛威を奮っているイデアの叫びにかすかな恐れを抱いていたが、そんなことは次第にどうでもよくなっていった。心が減ったと思ったら、牢内の荊棘に咲く薔薇に手を伸ばしていた。飢えを前にしたら、恐怖などは些末な思いに過ぎなかった。すっと伸ばされた白い指先は、かたかたと震えていた。指先は、危ういくらい、壊れそうに脆かった。生白い手は、血が通っていないようであった。否、血は流れていたとしても、壊れ物のように見えるくらいには、儚さに擬態した何かが生白さを演じていたのだった。次の瞬間には、麗人の美しい手は薔薇に噛み付いて沈んでいる。牙を剥くように指先が噛み付いて、肉の薄い手のひらが隠れていた棘に沈み込む。

 麗人は乱暴に薔薇を毟り取った。生々しさを欠いた欲の宿る指先で。薔薇を掴んで傷ついた美しい手は、おぞましい涙のように血を滴らせる。麗人の彫り深く鋭い目の下は、鬱血のような青みを帯びていた。長い睫毛の傲岸な影が、青い瞳に陰惨な豪念を落としていた。白皙の美貌は凄惨な青みと、虚に放たれた睚眥の迫力で鬼気迫る影を揺らめかせる。欲に滴る生っぽさが一片もない貪婪に、麗人の碧眼はぎらぎらと光っていた。魂の内側で獰猛な美が暴れるままに、麗人はむしった薔薇を口に突っ込んだ。震える手で薔薇をむしり、口の中へ運び続けた。薔薇を食べることを永久に続けていないと死んでしまう宿命の者のように。薔薇をむしって口へと運ぶ手は棘に掻かれて時には掴んで、掻き傷と刺し傷で血濡れていた。

 麗人は薔薇をむしり続けた。牢獄を作る薔薇を奪い続けた。花びらは苦い味がした。鼻先を抜ける甘い花の香りが、次第に分からなくなっていった。ひとをたくさん斬ったあとの匂いと、区別がつかなくなっていた。咥えた薔薇は麗人の唇に触れると、熱で溶けていった。舌先に乗せたチョコレートのように。甘く、柔く、とろりと唇の端から滴る。麗人の手のひらは荊棘に掻かれた傷と、唇の温度で溶け出した赤い花びらで深紅に汚れていた。薔薇をこぼして汚れていた。まだ、何も殺していないのに。

 赤くとろけた唇を、麗人は舌を横に這わせて舐めた。妖艶な血の香りと、殺伐とした甘みが、愛と縁を切った唇でひしめき合っていた。

 いつしか麗人は、牢獄の骨に絡みついていた薔薇を飢えに任せて喰らい尽くしていた。薔薇がないことに気がついたのは、ずっと流れていた葬送曲が音色を崩したことがきっかけであった。螺旋状に回っていた葬式の歌は、音を狂わせて、傷ついたレコードのように同じ音節をずっと繰り返し、同じ音節の頭の部分に戻っている。麗人は左手の人差し指で、薔薇にとろけた唇をなぞった。眦に険のある目は、頽廃的な曖昧さで、しばらくの間、薔薇を失って壊れた五線譜を見つめていた。

 やがて麗人は狂った旋律を描く五線譜に、手を伸ばした。薔薇で満ちた心と魂は、もう指先に痙攣をもたらさなかった。荊棘も、薔薇がなくなると同時に朽ちて萎れている。

 麗人が五線譜の螺旋を一箇所、柔らかな血でどろりとした手のひらで握り潰すと、葬送曲はひしゃげてしまった。麗人は歪めた旋律の隙間から、牢獄の外に出た。薔薇の過剰摂取で、目眩がするような息をつくと、麗人は食事をとり過ぎて動けない者のように、いつまでも横たわっていた。葬送曲の崩落を傍らに聞きながら。開いた手と指は、いつまでも血に淀んでいた。この手で誰かを抱きしめて、不幸な愛を口移ししたい衝動に駆られたが、麗人はこの手の飢えを押し付ける相手を亡くして久しかったので、ふっと微笑んで目を閉じたのであった。

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