第6幕.『激情を飼いならす』

 吹き迸る赤を喰らって、片方の目がぬらぬらとした涙を落とした。血である。割り付けた黒刀が肉に沈み込んだ感触に嬉々としているにも拘わらず、青い明眸は何を思っていても変わらない氷の凍気を凝らせたまま、血振るいでもするかのように一刹那の瞬きで目に入った返り血を振り払う。血の涙を流したように見える麗人の長い睫毛から、傲慢な瘴気が拡散する。

 すでに惨状は始まっていたのだった。いつから自分が駆け出して刃を振るっているのかが分からないくらいに、心を遠いもののように想う暇(いとま)があったかどうかさえ危うく、背後を久しく顧みていない。一瞬たりとも止まらない脚は、現れる夜の影を撫で斬っていた。斬らなければ、止まってしまえば、麗人は自分のうちに存在する悪意と悲劇を支配する何かに飲み込まれるような気分だけに駆り立てられていたのだった。

 夜の影は次々に斃れ、次々と麗人に襲いかかった。襲い来るのは人の形をした醜い影だった。影であるのに血を宿し、体に傷が付くと血を流す。襲いかかる醜い影を麗人が一体一秒で斬り捨てていく時間に、血飛沫の炸裂が連続する。

 影が踊る戦場を駆け抜けながら、麗人は激しい渇きと飢えの只中にあった。醜い影を斬り裂いた衝撃で震える剣の柄から、手のひらに向かって心が顫える魔毒が伝う。しかし無駄のない刃と血の道をつくる黒刀の構えに迷いや震えは存在しない。顫えているのは心であったのだ。殺戮の太刀筋に惑いや無駄はなく、剣を構え直す動きでさえ一颯の刃風に影を巻き込む。麗人は鍔のない黒刀から手の中にまで流れ込む血の一滴さえ逃さずに、啜り尽くすようだった。心のうろを満たすことに全身が虚しい命に飢えていた。凄絶な血斑と死に倦みながらも喰らうしかない貪婪を塗り落とした美貌は、心を血で満たそうと、悲しいくらいに無情の一点を睨む迫力だけが返り血とともに滴る。

 心に穴が空いているのだ。どれだけ影の骸を山と築いたところで、血は流れている。荊棘に縛られた心臓は、崇高な毒素によって神経に絡みつかれていた。


(虚しい)


 殺戮のカドリール、立ち止まれない飢えに、ふとよぎる嗤笑さえ乾燥していた。麗人は気づいてしまった。こんなに血に濡れているのに、魂が干上がっている。頭から血をかぶったような惨劇の舞台装置めいた美貌が、何故か綻んだのであった。

 飢えていることに気がついた麗人は、吸収効率の低い死を喰らう代わりに、口の中で唱えた。昏く、美しい呪詛を。


(渇け、何もかも全て渇いてしまえ)

(息づけるもの、全て)

(僕のものに、なるがいい)


 醜い影を斬り裂きながら、麗人は走り続けた。醜い影に肉薄した刹那の斬撃に、影は為すすべなく血みどろの骸と化す。麗人は自らの神経に並行していた荊棘に、溶解した魔性を注ぎ込んだ。荊棘はぼろぼろと焼け落ちて、麗人の内側に渦巻く美の棲家に飲み干されて取り込まれる。溶鉱炉に堕ちた薔薇は消滅して美の血肉となる。麗人が浴びた返り血は薔薇となって咲いた。緑の黒髪を濡らした血は蔓薔薇に姿を変える。麗人の髪に編み込まれ、鮮やかな黒味のある深紅が麗人を伝って、穢された神々しさに妖気を湛える。黒刀から流れる血は、生血に汚れた麗人の白い手を、刀身ごと炎の薔薇で彩った。返り血を涙のように滴らせた赤い筋、麗人のかりそめの嘆きは、美に取り憑かれた病さながらの薔薇模様を白い頬に描いている。

 いつしか薔薇の魔物となった麗人は醜い影を斬り捨てて、かつて生だったものの骸と、諦念の襲(かさね)で作り上げた山を駆け上がっていた。麗人が斬り捨てた生は、冷たく横たわって芥のように積み上げられて、高みへの階(きざはし)となっていた。麗人は支配の階段の上だけを睨み、血の滴る黒刀の羽先を下げては、それでも立ち止まらずに走り続けた。生を物に変える恐るべき営みが、堕落を赦さない美を熱量に変えて、ただただ激情を飼い慣らした。

 死者の階段を登った先には、何もなくなった戦場があった。死ぬことができる者が消滅した無常に、麗人は踏み込んだ。麗人はその何もない境地で初めて、血濡れた黒刀で血振るいした。すると何もない戦場が無粋なものの死滅を言祝ぐように、薔薇が咲き零れ満ち溢れた。濃密で清らかな空気が厳かに漂い、麗人を迎え入れた。

 美しいものは罪深く、決して儚くなることは赦されない。非力なものは美しくはなれない。麗人は美として待ち望まれていたのであった。かつて戦場であった優しく尊い場所に。罪の匂いが馥郁と香る薔薇の世界に。

 麗人は戦場の涯(はて)から遠くを見つめた。視界の隅から隅にまで、死が蟠っていた。首輪をつけた激情が、心の内で綻びる愉悦に、麗人は今度こそ虚しさとは違う感覚に打ち震えた。冷えた血の香りに酔いしれて、麗人は骸の頂に黒刀を突き刺した。言葉を覚えた流血は、最早凍えて腐敗を辿ろうとしていた。麗人は血の境地に咲き乱れる薔薇の褥に背中から倒れ込み、仰臥して、壊れたようにいつまでも笑い続けたのだった。

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