第5幕.『溶解』

 薔薇の香りが草いきれと共に冷えていく。緑の匂いが静かになる頃、薔薇は蜜の匂いを馥郁とさせて、小焼けの風にそよぐ。仄かに太陽の匂いが残る夕方、薔薇の大樹の木陰に、麗人の姿があった。陽の残照を避けるように影の中で涼みながら、風に遊ばれる長い前髪に時折指を通して、分厚い本のページをめくっている。暑熱が去った過ごしやすさに催す物憂さが眠気を誘っていた。麗人は長い睫毛を機嫌が悪そうに伏せて、青い瞳に傲岸な翳りを落としていた。気分が悪いわけではなかったが、眠りに落ちそうな微睡みは、麗人の鋭い険がある眦を、睫毛の影の麗しさを、際立てていた。眠りに傾く時でさえ、麗人の美貌は色を変えながら匂い立つ空気があった。

 気が緩んだ一瞬、本に掛けていた繊細な指先がするりと落ちて、風が本のページを悪戯にめくった。麗人は未だ眠気の中にありながらも、はっとして顔を上げた。本のページは、ばらばらとめくれてしまっていた。


(何処まで、読んだっけ……)


 のろのろとページを繰りながら、麗人はゆっくりと瞬いた。その長い睫毛の紗幕、瞬きの狭間に、麗人は先刻までこの風景になかったものを捉えた気がして、本をめくる手を止める。

 城の薔薇庭園にいた麗人は、見慣れないものを視界の端に見て、首を巡らせた。白い衣を着た影のようなものが、遠くにうっそりと立っている。屍衣を纏った影のようなそのひとは、確かに麗人を見ていた。強い視線を、感じた。しかし、それでいて、何度も向けられたことのある視線だとも思った。麗人は直感で、白い影の正体を悟った。自分が何度も、その刃を砕いてきたものの仲間だと思った。幻想の世界から現れたような工夫と、夢のような変幻を仕掛けてきた白い影に、麗人の薄い唇から図らずも失笑がこぼれた。

(死神だ、いつもと色が違うけれど)

 影はいつものように、麗人の首に鎌を振り下ろすことをしなかったので、麗人は本を閉じて、影を見つめた。玲瓏とした青い視線が、白い影を捉える。白い影は花壇の薔薇を掻き分けて、少しだけ麗人と自らの距離を詰めた。麗人は敢えて、何かを仕掛けられるのを待った。

 白い影は石弓のようなものを手の中に出すと、細い矢を放った。麗人に向かって飛来したそれを捕捉すると、麗人は胸に向かって飛んできたそれを、硝子細工のような指先ではさみ取った。麗人は矢柄を指先に挟んだまま、白い影に誰何した。


「誰だい」


 白い影は答えなかった。回答に代わって、麗人の手の中で矢柄が爆発した。矢柄から解き放たれたのは、この世ならざる酸だった。痛み何もないままに、酸を浴びた麗人は人間の形を保てなくなっていく。


「僕に……なにをしたの」


 麗人は聞き手の左手を開いた。手はほろほろと、薔薇になって散っていく。特に驚くこともなく、麗人は澄んだ目線を投げかける。白い影は自分で放った矢が麗人にもたらせた変化に、どうしてか震えていた。麗人が薔薇になることを、全く予期していなかったのだ。影は、人間の形を保てなくなった麗人が、酸に焼けて腐ると思っていたのである。

 麗人を侵すこの世ならざる酸は、麗人の全身をすぐに駆け抜けた。麗人の手足は勿論、白皙の美貌まで、人間の形と態を守れなくなって、薔薇となりながら崩れていく。麗人という獰猛な美のイデアが、人間という表皮を壊されて、現れてしまったのである。

 薔薇庭園の薔薇たちは、麗人の瘴気に同調していた。甘かった香りが、今や毒の瘴気となっていた。麗人は崩れ散りながら、薔薇の魔物のような姿で、己の深部にあるイデアの溶鉱炉を、ぐらぐらと燃やした。幾千もの薔薇になりながら、散った自らの断片を炎と燃やした。麗人が尖った顎をしゃくると、白い影の周りに咲いていた薔薇たちが、一斉に荊棘を放った。白い衣をずたずたに引き掻き、衣の内側から黒い衣を着た死神を引き剥いて正体を曝す。麗人は鼻先で笑った。


「僕の死に方を考えるには、貴様にはまだ早い」


 麗人はもう、殆ど崩れていた。その言葉を最後に、麗人の口も薔薇になって燃えていった。麗人の身体は、美貌の右目を残して、全てが薔薇になって散っていた。そしてその隻眼も、最後に青い薔薇になって、消えていった。麗人自らの美の溶鉱炉に、自分を焼いて飲み干させた。そして死神は、麗人の血が通った薔薇によって死んだ。薔薇の大樹、その根元に残された本のページだけが、いつまでも夕方の風に躍っている……

 死神が死んでから数分後、薔薇庭園の隅にあった柩が、静かに軋る。きい、と寂しい音を立てて、柩の蓋が開いたと思うと、青い薔薇が一輪、小さく外を覗き―――その青薔薇は深海色の明眸となる。硝子細工のような指先が、ほろほろと薔薇の花びらを散らせながら、柩の蓋をこじ開けた。

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