第4幕.『海』

 潮の満ちた暗い海を、麗人はひたひたと歩いていた。砂浜から続いていた長い桟橋を、もうどれくらいの時間が過ぎたのか分からないほどに歩き続けていた。高潮で桟橋は波を被って沈んでいた。麗人はその道を、足を濡らしながら何処までも歩いていた。潮風と、波の音を杳然と聴きながら、塩分を含んだ風に長い髪を軋らせて。振り返ってみると、リボンで結わいた黒緑の長い髪が麗人の横顔を素っ気なく撫でた。岸は、もう、見えなかった。

 麗人は脆い桟橋の上を歩き続けた。遠くから見れば海の上を歩く聖人に見えただろうが、潮風に薔薇の瘴気は攫われて、止まらない波の営みは麗人の影さえ映さない。そんな、誰にも来られない、夜の海の真上に、麗人は居た。

 月が明るい夜だから、暗闇は白っぽかった。麗人は、灯りを持たずに、闇を透かすことに慣れた目を凝らして進んでいた。何か目的があって海に足を踏み出したことは覚えているのに、麗人の意識は月明かりに包まれて、さざ波に洗われて、この闇のように仄白くなっていた。

 麗人は足に絡みつく波と海を振り払うような足取りで、沖の方へと進んでいった。海の底から、強い引力を感じた。屍の手にも似た重たい波が、麗人の歩みに錨を付けようとしていた。塩分に腐食した桟橋が、危うい音を立てて軋るごとに、風になびく麗人の後ろ髪を引く力が弱くなっていった。波の静けさにつられてか、心の内側に存在する波もまた、穏やかになっていった。麗人はもう、目を凝らすことをしなかった。切れ長の大きな目は、深海色の瞳を囲う長い睫毛は、日頃の殺伐と傲慢を、この歩みの何処かで流されてしまったかのようであった。

 麗人は海の上に、黒い波の上に、白い弦月を見た。そこではじめて、麗人は立ち止まった。麗人は屈み込んだ。月に手を、伸ばす。弦月は、とろりとしていて冷たく、脈動のように温かかった。指先が海に触れて、月が、歪んだ。桟橋が終わったのは、そのときであった。

 波に歪んだ月を追いかけて、麗人が前へ出たら、麗人がいた位置で桟橋は終わりを迎えていた。黒い嵐の中心めいた、闇の海の上から、麗人は生温かい海に落ちた。

 麗人は海に抗うことをしなかった。暗い海の中で、海と溶け合った。呼吸を止めることを放棄して、最初から海をのんだ。流れ込んでくる引力を、受け入れた。酸素を失った美貌の白さは、病的と表していいほどに生と言う名の美を昏(くら)い燦然で凄愴とさせた。死脈が海に薔薇を香らせた。厳かな死臭。決して連絡することのない生と死が、海の闇から出会おうとしていた。死だけが生の価値を決められて、死だけが生の重みを知らしめるゆえに、往き来することを赦されない概念が、美によって結びつけられようとしていた。生きることと死ぬことの意味が、往来によって消滅しようとしていた。死は死者だけのものであり、生きる者だけが人生を所有する。麗人は生きながら死を知り尽くす高みに溺れていった。それは人生の喜びも悲しみも、何もかも全て破壊する存在になることであった。生と死の双方から、意味を奪うことであった。大海に無力を捧げた明眸は、ぎらぎらと明滅していた。麗人は海を飲み込み続けた。血管を海が流れて行くのを感じていた。

 海水と血液は、同じ成分である。海は、麗人の美貌に流れる血と同じくらいに、夥しい人生の世界終末を刻んでいる。出会ったこともない誰かによって造られた血を想いながら、麗人は水面が近づいてくるように感じていた……

 その時間が一瞬であったのか、長い時間であったのか――砂時計の残骸を積み上げたような冷え切った砂浜で、麗人は意識を取り戻す。

 確か、月を掬い取りに行こうと思っていたのだ。しかし、本当は、沈んでしまうまで、泳いでみたかったのである。どちらが本当の理由なのか、或いはどちらも嘘なのか。麗人はもう分からなかったが、釈明をするような相手もいないので、どちらでもよかった。

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