第7幕.『薔薇庭園に見る海』

 背の高い薔薇の木の下、冷たい石の褥に横たわり、麗人は一人だった。麗人の所有物である城、その敷地は車が通れる一本道を除いて薔薇園になっている。石畳に入ったひびからも新たな薔薇が咲き、薔薇以外の花は存在しない、豪奢な庭であった。しかし、それでいて花壇の間の小径は寂しい色を続けている。病を忘れて乾いた病葉が、土の上を覚えている。

 薔薇の獰猛が支配する庭に緑は萌えることはない。薔薇によって廃されて滅んだような、瘴毒の強い場所。その片隅に、麗人は居た。枝を整えて切った、果実の木のような佇まいの薔薇。花びらを通過した光は、妖しい赤色の影で麗人の美貌に血斑を滴らせている。

 時が留まったような風が、一定の間隔でそよいでいた。麗人は長い睫毛を頽廃的なほど物憂げに伏せていた。睫毛で隙間のない花瞼の端がぴくりと動き、深海色の瞳が、また物憂げに、半分だけ覗いた。隠れた瞳で闇を透かし睨み、現れたもう半分の瞳で広がる薔薇を見ながらも、睚眥は遠くに焦点を据えている。

 横分けの長い前髪の間で、美しさの過ぎた造りの美貌は、鋭い眦に険を刻んでいた。花びらを透かした赤い紗幕の揺らめきが、麗人の持て余している覇気を誘うように踊る。


「つまらないな、退屈だな、何か、ないかな」

 麗人は薄い唇で呟いた。

「僕の退屈を癒してくれる、面白い、ことが」


 呟きの甘い声が果てると、麗人は行くあてのない意識を、虚無のうちに解き放った。麗人は再び目を閉じ、放った業念を彷徨わせる。しっかりと明眸を開いたときには、城の薔薇園は歪んで爛れていた。ぐずぐずと溶けて、どろどろと形の境界線を奪われた庭の薔薇は、ジャムを煮込んだ鍋のようだった。麗人の瞬き一つで、全ては境目を失った。

 庭は溶けて、麗人を取り残した。そして、麗人のいる薔薇の木の麓から庭は練り直されていった。ばらばらになった構成要素が、麗人の思うままに再構築を始める。

 風の音は波の音になる。薔薇庭園は跡形もなく、花の香りは朝の匂いに変わる。高速で干潮を迎えた海から、草原が現れる。羊の群れが草を食む先には、干上がった湾上の遥か遠くの霞の中に、要塞型の城が臨めた。

 麗人は柔らかい草の上に降りた。

 海に浮かぶ、天空の要塞。厳かな屹立を続ける黒影の城。海が退くと現れる羊たち。信仰と大天使が住まう屋敷。

 麗人が、この世で一番好きな場所の景色だった。場所の構成要素が見えるようになってから、麗人は戯れに薔薇を海に練り直す遊びをする。

 訪ねるには物理的には慣れ過ぎていて、心に信仰があったころに時を遡らせることが赦されないゆえに、望んでも踏むことができない土地を、そぞろに偲ぶ。

 麗人は御伽の城へと歩き出した。羊を数えて微睡みながら。一本しかない道を、小さなうさぎが一匹、横切ろうとした。麗人はうさぎを拾った。抱きかかえて、小さいうさぎに囁きかける。


「君、要塞の薬草園から来たんだろう? 僕は知っているよ……うさちゃん、僕と一緒に帰るかい?」


 うさぎを大切な荷物のように抱えて、麗人は再び歩き出した。自分が、得体の知れない何かを、やめようとしている気配がした。しかしそれは、得体が知れないゆえに、覗くことができなかった……


「主(あるじ)」


 要塞の入り口には、よく知った従者が、仏頂面で麗人を待っていた。麗人は尋ねた。


「どうしてギュスターヴが、此処にいるの」

「警視総監から会見の申し出の電話があった旨をお伝えに参りました」

「そう……」


 従者に、この景色は見えていないのだろうか。麗人が瞬いて腕の中を見ると、うさぎの姿はなく、代わりに麗人は薔薇をひと抱えほど持っていた。

 美貌と自らの内で焼灼された美以外、全ては元の薔薇園に戻っていた。海は蒸発し、要塞の影もなく、羊たちは行方が知れない。


「分かった……戻るよ」


 内側で渦巻く次元の上昇。美は呪いより強く、麗人を祝福する。この力のことは、今はまだ薔薇の下に隠しておこう。麗人はそう決めて、城へ戻った。

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