女仙転生 -水の玉から産まれた少女と宇宙を孕む大樹-

壱原優一

第1章 水珠

第1話 水の玉から産まれた少女

 雨粒が一つ、降ってきた。

 両手で抱えられるほどに大きな雨粒だ。


 リウ泰然タイランヂァンランは初め、そう思った。


 夫妻が、この日、朝霞チョウカ村から歩いて七日ほどのところの、切り立った山々を背とする山青サンセイ村までやって来たのには理由があった。

 子は授かりものと言うけれど、泰然と蘭が夫婦となってから五年、未だできぬのだ。


 当然、祖霊には祈った。毎年七月七日には九子星を拝んだ。

 鶏が初めて産んだ卵が良いと言う者や、瓜が良いと言う者あれば、それを食した。


 古人いわく、不孝には三つあるが後継なきこと大なり。

 夫妻の――特に妻たる蘭の双肩にかかる重圧は推し量るまでもない。


 さすれば泰然も、この小旅行に不満などあろうか。

 これで少しでも妻の気が晴れるのなら。

 そして、子を授かれるのなら。


 夫妻は、村人に教えてもらった通り、岩峰の群れ立つほうへと道なりに歩いていった。


 間もなく谷の入口が見えてくる。

 断崖がまるで重厚な門の如く、両脇に聳えている。


 その右手側に小さなうろあり。

 中には、灰だけがこんもりと積もっている。

 なにかの像があるわけでもない、片手が入る程度の、その穴を村では子授けの洞として、しばしば縁なき夫婦が祈願するという。


 ふたりもそれにならって、一束の線香に火を点して奉じた。


「できると、いいな」


 夫の言葉に、蘭は小さく頷くのみ。

 その表情かおは相も変わらず、陰気だ。


 泰然は妻の背をさすり、

「さあ、もう行こう。泊めてくれる家を探さなくては」


「……ええ」


 来た道を戻り始めると、にわかに雨が降ってきた。

 それはすぐに、ざあ、ざあ、という音を立て始めた。


 裾がたちまち泥にまみれていく。

 ふたりは木の下へと逃げ込み、肩を寄せ合った。


 泰然は妻の髪を撫でつつ、

「通り雨だな。ほら、向こうは晴れている」

 言われて蘭が顔をあげたときだ。


 影が、ふっ――と、降ってきた。


 それは対面の木の根に当たると跳ねて、ぼよん、ぼよん、と夫妻の足元に転がってきた。

 透明な玉だった。


 だから、ふたりは初め、やけに大きな雨粒が降ってきたものだと思ったのだ。


 両手で抱えられるほどのそれが、弾けることなく足元にあることの不思議よりも、よっぽど不思議なものを、その玉の中に見つけるまでは。


 鄭蘭が血相変えて叫んだ。


「あ、あなた! 赤ちゃんが!」


 水で出来ているような玉の中で、その子はすやすやと眠っているようだった。


「い、生きているのか?」


 おっかなびっくり。

 ふたりは共に水の玉らしきものを抱えあげた瞬間――、


 ぱしゃんっ!


 と、玉が水に返った。


 途端に赤ん坊は堰を切ったように、元気に泣き始めるのだった。


 目を丸くして見つめ合う夫妻だったが、それもわずかな時。

 蘭は赤ん坊を優しく抱きしめる。


「きっと、天に祈りが通じたんだわ」


 泰然は頷いた。

「名前を、決めてやらなきゃあな」


「えっと……女の子みたいよ」


 夫妻はどちらともなく天を仰ぐ。

 雲の切れ間から覗く光に、雨粒がきらめいていた。


水珠スイジュ

 と、先に口にしたのは泰然だった。

「って、まんま過ぎるか」


「いいじゃない!」


 ふたりが再び赤ん坊に目を遣ると、赤ん坊はもう泣くのをやめて、親指をしゃぶっていた。

 母となった女は目を細めて、愛おしそうに呼びかけた。


「水珠、水珠ね。あなたは、水珠。わたしたちの、可愛い子」



     ◇



「水珠!」

 怒声と共に、母が右手を振りかぶる。


 水珠は目をぎゅっと瞑って身構えた。

 矢先、頬を平手がピシャンと打つ。


「この役立たず!」


 背負う籠の重みもあって、よろけた少女の年の頃は十つほど。

 義妹いもうとの拙い手に切ってもらう黒髪は、少年のようにとても短い。

 その痩せっぽちの身にまとう、麻の服はすっかり丈が合わなくなっているが、未だに擦り切れた箇所に当て布をして着続けている。

 父母の手の掛かっていないこと、明らかだった。


「ご、ごめんなさい!」


 軒先の水珠は、蹲るようにして頭を下げた。

 涙が零れ、土間を濡らす。


 籠から大根が一本、滑り落ちる。


「あっ」

 と、手を伸ばしかけたところで、母が金切り声で叫んだ。


雪梅シュエメイに、死んで欲しいんでしょう!?」

「そんなこと!」あるはずがない。

 たとえ血は繋がらなくたって、三つ下の妹は目に入れても痛くない可愛さだ。


 けれども母は、否定の言葉をこそ否定するかのように、戸をピシャリと閉めた。


「金を作るまで帰ってくるな!」


 水珠は鼻を啜りながら涙を拭い、大根を入れ直すと、また籠を背負った。

 俯き加減に、村の出口へ、とぼとぼと歩いていく。


 日が沈むまで、もう間もない。

 村人も、そのほとんどが家に帰っている。


 山のなだらかな斜面を耕した、この農村から近くの町まで今からまた行けば、着く前に夜になっていること必至。

 町は日暮れと共に城郭の門を閉めてしまう。

 たとえ、そうでなくとも、町に入れば大根が売れるというものなら、水珠は家を追い出される羽目にはなるまい。


 この大根は、そもそも、売れないのだ。

 見た目に瑕疵きずはない。とても立派な大根だ。

 しかし、この村で採れたものは、もう売れないのだ。

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