ただ君に会いたくて

朱宮あめ

キセキ的な日々に祝福を


「こんにちは。先日となりに引っ越してきました、本田ほんだといいます」

「……どうも」

 突然鳴ったインターホンに玄関の扉を開けてみれば、そこに立っていたのは小柄な女性。茶髪で猫目をした、とてもきれいなひとだった。

「これ、お近づきの印によかったらどうぞ」

 差し出されたのは、高級そうな菓子折袋。

「……あぁ、わざわざすみません」

 それをさっと受け取ると、僕は小さく会釈をして扉を閉めた。

「……はぁ」

 扉を背に、小さく息をつく。

 びっくりした。いきなり女性が訪ねてくるなんて、果たしていつぶりだろう。

 菓子折をテーブルに放り、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、喉を潤す。

 ……僕は、人が苦手だ。

 昔からそうだった。

 学校が苦手で、教室が苦手で、いつも校庭の池で鯉をぼんやり眺めたりしていた。学生の頃はそれでもなんとか通っていたけれど、人見知りがひとつの個性として扱われるのは未成年までのこと。

 おとなの世界でそんなものは通用しない。

 周りの空気を読んで、上司の顔色を伺って、取引先には腰より低く頭を下げて。

 毎日神経をすり減らして、死への旅路をゆく。それが人生。

 そんな毎日に疲れてしまった僕は、すべてにおいて期待するということをやめた。

 だって、社会や会社が僕に対してなんにも期待していないということが分かったから。

 だから僕も、もらっている給金以上のことはしない。

 時間通りに出勤して、定時で帰る。お人好しのいいひとなんて損だし、新人教育なんてものも仕事効率が悪くなるだけだからわざわざしない。

 あからさまにそういう態度をする僕を、会社や近所のひとたちは変人だと囁いて、少しづつ避けるようになった。

 ちょうど、仕事から帰って部屋着に着替え終わったとき、インターホンが鳴った。

「こんにちは。これ、作り過ぎちゃって。おすそわけです」

「……はぁ。どうも」

 となりの部屋に引っ越してきた本田とかいうこの女性は、なぜか僕によく料理の差し入れをくれる。

 見た目からして、おそらく二十代前半くらい。

 僕のようなくたびれたおじさんに餌付けをしてなにが楽しいのかと思うけれど、まぁ拒絶するのも面倒だし、どうせすぐに飽きるだろう。

 ……と、思っていたのだけれど。

 差し入れが週に一度から三度に増えて、いつの間にか、毎日のようにインターホンが鳴るようになった。

「あの……本田さん」

「ハイ?」

 まるまるとした瞳が僕を映し出す。

「その……差し入れはありがたいんですが、なぜこんなに僕によくしてくれるんです?」

 すると、彼女は数度瞬きをして、言った。

「好きだからです」

「……は?」

 今、なんて? スキダカラ?

「好きなんです、野上のがみさんのこと」

 こんな若くて可愛い彼女が、こんなくたびれたサラリーマンの僕を?

 ……いや、有り得ない。

「……もしかして、バカにしてます?」

「な、なんでですか! してませんよ」

 慌てた様子の彼女に、胡散臭い目を向ける。

「……正直、迷惑なんです。若い君に僕が手を出したとか噂になってるし」

「あ……そ、それは……」

 本田さんはしゅんとしたように肩を落として、「すみません」と呟いた。

「そういうことなので、明日からこういうことはやめてください」

「……はい」

 これだけ差し入れをもらっておいて、冷たい言い方だっただろうか。でも、ほかの言い方が分からない。彼女には悪いけど、僕はもう、だれとも仲良くなるつもりなんてないのだ。

 それから、彼女は僕の部屋のインターホンを鳴らさなくなった。


 それは、珍しく残業をした日の帰り道だった。河道を歩いていると、前方に人影が見えた。コンビニ袋を手に歩く後ろ姿に覚えがある。

「……あ」

 本田さんだった。

 僕の気配に気付いたのか、本田さんが振り返る。

「あっ、野上さん! こんばんは」

 見つかってしまったら仕方ない。僕はため息混じりに彼女のそばに歩みを進める。

「……こんな時間にコンビニですか」

 女の人ひとりでこんな街灯のない道、危ないだろうに。

「あ、えっと、夕飯を買いに」

「夕飯……?」

 毎日のように夕飯を作りすぎたと言っていた彼女でも、コンビニに頼ることなんてあるのか。なんて考えながら歩いていると、本田さんが言った。

「……ここらへんって、昔からぜんぜん街灯ないですよね」

「まぁそうですね……って、本田さんってこのへん出身だったんですか?」

「いえ。違いますけど、左右田そうだのおばあちゃんが言ってたから」

「あぁ」

 左右田のおばあちゃんとは、本田さんの左となりの部屋のひとだ。ひとり世帯のさみしい老人で、いつも話し相手を探している。本田さんも彼女の餌食えじきになっていたらしい。

「……ここら辺は、大雨になるとすぐに水かさが増す。氾濫はんらんすることも多いから、雨が降ってるときは避けたほうがいいですよ」

 この川は、かつてこの辺りを襲った大雨で増水し、周辺の家々を浸水させたという前科を持つ。

 僕はひとり暮らしをする前からこの街に住んでいた。この川辺にもよく来ていた。いい思い出はないけれど。

「そうなんですか」

 川のせせらぎが聞こえるほうへ目を向ける。視界は真っ暗だった。

「それにしてもここ、すごい雑草ですね。野上さんの背よりあるんじゃないですか?」

 ぼんやりしていると、突然目の前に顔が現れた。

「わっ!? な、なに!?」

 驚いて後退りすると、本田さんはさらりと僕から離れた。

「すみません。そんな驚くと思わず……けど、野上さんちょっと大袈裟ですよ。そんな化け物を見たような顔されたら、さすがの私も落ち込みます」

 ぷりぷりとした声を出す本田さんに、僕は何度目か分からないため息をつく。

「それより、どうかしました?」

「……いや、べつに」

 河原から視線を外し、帰り道、コンビニで買ったチューハイを喉に流し込む。

 炭酸で舌が痺れた。

 そのとき、ひゅっと風が吹いた。

 風に乗って、なにかが聞こえた気がした。足を止め、耳をすませる。

「野上さん?」

 立ち止まった僕を、本田さんが振り返る。

「……あ、いやなんでもない」

 再び足を前に出したとき。

 ――にゃあ。

 川のせせらぎの隙間から、たしかに聞こえた。

「……この声」

「え?」

 スマホの懐中電灯を付けて、川辺に降りた。

「ちょっ……野上さん!?」

 本田さんの止める声も無視して、僕は草の根をかき分けるようにして声の主を探す。

「野上さん! なにしてるんですか」

「猫の声がしたんだ。たぶん、まだ仔猫」

「猫……? ここに?」

 本田さんが周囲を見渡す。

「たぶん、すぐ近くにいる気が……」

「え、だからって探すんですか? こんなに真っ暗なのに無理ですよ。もしいたとしても、仔猫じゃ怯えてどこかに隠れちゃうんじゃないですか」

「それならいいんだけど……でも、もし明日ここで仔猫が死んでたら後悔すると思うから、やれることはやりたい。送れなくて申し訳ないんですけど……もう深夜だし、本田さんは先に帰ってください。暗いから気を付けて」

 夜露で濡れた草を避けながら、河道にいる本田さんに叫ぶ。

 伸び切った雑草は、ただでさえ悪い視界を遮るし皮膚をくすぐるしで鬱陶しい。でも、雑草が濡れているおかげで顔や手の皮膚を切ることはなさそうだ。

 無心でちいさな命を探していると、頭上から大きなため息が聞こえてきた。

「こんな夜中に、しかもこんな視界が悪い場所で仔猫探しなんて、無謀にも程がありますよ」

 思ったより近くで声がして、驚いて顔を上げる。

「そもそも、考えてみてください。こんな真夜中にひとりで中年の男が河原をうろついていたら」

 ……想像する。いや、想像しなくても分かる。

「確実に不審者。職質案件ですよ」

「それは……」

「そういうわけだから、さっさと見つけちゃいましょ! さて。可愛いかわいい仔猫ちゃんはどこかなー?」

 と、当たり前のように仔猫捜索に合流する本田さん。

「……本田さんって、変わってますよね」

 こんな僕なんかに、手を貸すだなんて変人以外の何者でもない。

「え〜? そんなことないですよ〜。少なくとも、野上さんほど不審者がられてないです」

「……それもそうか」

 僕は手に持っていたスマホをかざして、階段を降りてくる本田さんの足元を照らした。


 ――にゃあ。

 その声は、聞こえるはずのないものだった。

 手の中には、ちいさすぎるいのち。

 生まれたてでまだ目も開いておらず、びくびくと震えるだけで鳴き声すらあげられないようだった。

「かなり衰弱してますね」

「…………」

「……どうするんです? このままじゃこの子……」

 本田さんは、その先は言わなかった。ぐっと奥歯を噛み締める。いやだ。死なせるのは、いやだ。

「動物病院を探す」

 こんな深夜にやっている動物病院があるとは思わない。けど、なにもしなければこの子は死んでしまう。それなら、足掻かないと。

「私、救急外来がある動物病院知ってますよ」

「本当ですか!?」

 そのひとことは、一本のわらだった。

 その後、深夜もやっている動物病院へ連れていき、処置を終えて帰路に着いたのは、明け方の四時だった。

「……付き合わせてしまって悪かったですね」

「いえ。仔猫ちゃんが無事でなによりでした」

「これから里親探さないと……」

 しかし探すにしても、俺には友達なんていないし、知り合いもほとんどいない。

「え、野上さん飼わないんですか?」

「……僕は飼えないよ」

「どうして?」

 それは……。

 喉まででかかった言葉を呑み込み、ぎゅっと唇を噛む。 

「……とにかく飼えないんだ。だから、飼ってくれるひとを探さないと」

 背中を向けて、夜道を歩き出す。

「ここまでしたのに……」

「本田さん、近くに猫好きな知り合いとかいませんか?」

 本田さんの言葉に聞こえないふりをして、僕は訊く。

「うちのアパート、ペット禁止じゃないんですし、飼ってあげましょうよ。ねぇ? この子、野上さんにすごい懐いてるじゃないですか」

「……僕は、猫は飼えない。飼えないんだ」

「アレルギーでもあるんですか?」

「そうじゃないけど……」

「じゃあ飼ってあげましょうよ。私も手伝いますから」

「……できない」

「なんで?」

 頑なに首を横に振る僕を、本田さんは怪訝な顔で見つめてくる。

「……なんでも」

「なにか理由があるんです?」

「あなたには関係ないでしょう」

「だったら、なんで助けたんですか」

「……それは、だって、放っておけないから」

 目を泳がせる僕に、本田さんは詰め寄ってくる。

「そんなの勝手すぎます! 助けたあとの責任を持てないなら、絶対この子は助けるべきじゃなかった。あのままにしていたら、ほかのだれかがこの子を助けてくれたかもしれないのに」

 そのとおりだった。そんなことは、僕だって分かっていた。でも、身体が勝手に……。

「君になにが分かるんだよ」

「……分かります。この子には、野上さんしかいないんですよ」

「……僕はダメなんだよ。動物を飼うことに向いてないから」

「向いてない?」

 言葉につまりながら、呻くようにして告げる。

「……昔、飼ってた仔猫を死なせたことがある」

「え……」

「小学生のとき、あの川の橋の下で仔猫を見つけて……親に隠れて飼ってたことがあるんだ。でも、仔猫を飼い始めてすぐ梅雨に入って……大雨で川が氾濫した。雨が止んでから川に行ったけど、ミィはもうどこにもいなかった」

 たぶん、流されてしまったのだと思う。

「……僕のせいだ。僕がミィを殺したんだ。すぐに親に相談して里親を見つけてあげてれば、ミィはあんなことにはならなかったかもしれないのに」

 呟くように言うと、本田さんは黙り込んでしまった。

「……だから、僕はもう」

 ――にゃあ。

 重い空気を察したのか、仔猫が足に擦り寄ってきた。そのまま、ジーンズにしがみつくようによじ登ってくる。

 ……可愛い。

「顔が緩んでますよ?」

「……う、うるさい。とにかく、僕は飼えな……」

「じゃあ分かりました! そういうことならこの子は私が育てます。でもその代わり、野上さんも手伝ってくださいよ!」

「……はぁ?」

 本田さんは満面の笑みを浮かべて僕を見ていた。

 もはや、ため息しか出ない。

「…………分かったよ」


 それからというもの、毎週金曜日にとなり部屋の本田さん家に通う日々が始まった。

 手土産は決まって猫缶や猫のおもちゃ。

 仔猫には、本田さんがキセキという名前を付けた。

 あれから半年。

 あの日、今にも死にそうだったキセキは、すくすくと成長して今では立派なお猫様だ。

 毛並みは白と茶の斑模様まだらもようで、耳は小さめ。大きな目は、猫らしくなく少し垂れていて、そんなところがまた可愛い。

 キセキが来てから、僕の中でなにかが変わっていった。

 仕事以外では、ほぼ引きこもりのような日々を送っていた僕。

 週一で玄関を抜けるようになったからか、毎日ちゃんとした服を着るようになって、キセキの餌を飼うために買い物にもよく出るようになった。

 こころなしか仕事も楽しく思えてきて、前向きになれているような気がする。

 そして、それは本田さんも同じだったようで。

 本田さんは、僕が来ない日はコンビニ弁当やカップラーメンで済ませてしまうようだったけれど、僕が来る金曜日は必ず、手の込んだ晩ご飯を用意してくれた。

 栄養に悪いからと、僕が来ない日もちゃんとしたものを食べるように指摘すると、彼女は再び差し入れをくれるようになった。

 彼女の言い分によると、ひとり分の料理では逆にお金がかかってしまうのだという。

 それからは、仕方なく、僕は食費を渡して差し入れを受け取ることにした。


 そんな日が、さらに半年続いたある日のことだった。

「――帰省?」

「はい。いい加減、母に帰ってこいと言われてしまいまして」

「いいんじゃないですか。親もひとり娘の顔が見たいんでしょう」

「じゃあ、キセキのことをおまかせしてもいいですか!?」

「あぁ……そうなるのか」

 思わず額を押さえた。

「母は猫アレルギーなので、連れて行けないんです。ほかに頼れるひともいないですし……お願いします!」

 ぱん、と顔の前で手を合わせ、頭を下げる本田さんに、僕は深いため息を漏らす。

「ペットホテルとか……」

「そんなのダメです! あんな狭いところに押し込められたら、キセキが可哀想です!」

 ……まぁ、分からなくもないけれど。

 ふと、彼女が少し悲しそうに微笑んだ。

「……野上さんがそんなにキセキを引き取りたがらないのは、過去に飼ってたミィちゃんのことですか」

 ぴくりと手が止まる。

「……あぁ、そういえばしましたっけ、そんな話」

 たしか、キセキの里親を決める話で揉めたときに少し漏らした程度だったかと思うが。

「野上さんは、ミィちゃんを助けられなかったことをずっと後悔してたんですよね。だからもう、生き物は飼わないって」

「…………」

 自分のせいで自分よりも弱いいのちが失われてしまったら、きっとすごく辛い。しかも、それが子供の頃の経験ならなおさらです。

 彼女はそう呟き、目を伏せた。

「でも、野上さんに助けられたミィちゃんは、きっと幸せだったと思いますよ」

「……君になにが分かるんだよ」

「……すみません」

「……いや。……僕のほうこそごめん。……たしかにミィは、僕が助けたことで少しは長く生きられたかもしれない。でも、僕が助けなかったら川に流されるだなんて苦しい思いはしなくても済んだかもしれない。ほかのひとに拾われていたら、今も生きていたかもしれない。そう思ったら、とてもじゃないけど……」

 本田さんが、そっと僕の手を取る。

「後悔しない生き方なんてないですよ」

「え……」

「だから、野上さんの後悔はきっと正しい。でも……ミィはたぶん、そうやって野上さんが自分のことを引きずったまま生きることを望んではいないと思います」

 その手はとても力強く、生命力に満ちていた。

 僕はぐったりと力を抜く。

「……帰省はどれくらい?」

「一週間です」

「……まぁ、そのくらいなら」

「本当ですか!? ありがとうございます! えっと、じゃあキセキの荷物は全部まとめて野上さんの部屋に移動させましょう」

「そこまでするんですか? たった一週間なのに大袈裟じゃ」

「キセキにストレスがかからないようにするには、それがいちばんでしょう!」

「……ですね」

 こうして、彼女の帰省に伴うキセキの引越しが始まった。


 翌週、本田さんがつ日。彼女はキセキを連れて、となりの部屋である僕の部屋へとやってきた。

「今までお世話になりました。キセキのこと、よろしくお願いします」

「たった一週間の帰省でなにを大袈裟な」

 呆れた声を出す僕に、本田さんは小さく笑う。

「ですね。すみません。……キセキと離れるのが、ちょっと寂しくて」

 そう言って、本田さんは少しだけ寂しそうに俯いた。

「…………」

 沈黙が落ちる。

「あ、そうだ。これ、差し入れ」

「えっ、なんですか?」

「……僕は自炊ができないから、ただのコンビニのものだけど、よかったら」

「なんだ。コンビニかぁ。せっかくくれるなら、もうちょっと色気のあるものが」

「文句言うならいいですよ、僕が食べます」

「すみませんありがたくいただきます」

 慌てた仕草で袋を奪われた。

「えへへ。車内で食べますね」

「それじゃあ、気を付けて」

「はい。あの……さよなら、野上さん」

 なにかを覚悟したような口調の本田さんに、僕は一度目を伏せた。

 背を向け、キャリーケースを引いて歩いていく本田さんの背中に、僕は小さく呟く。

「わざわざ来てくれて、ありがとな」

 ほんのり冷たい風が吹く。

「え? なにか言いました?」

「……いや。なんでもない」

 振り向いて首を傾げた本田さんに笑みを返して、僕は玄関の扉を閉めた。



 ***



 ――夢の終わりというのは、こんなにも呆気ないものなんだな。

 閉じた扉を見て、小さく息を漏らす。たぶん、しっぽがあったら垂れている。

 私は、この街に来る前から彼のことを知っていた。だって、彼がかつて助けた仔猫のミィは、ほかでもない私なのだから。

 私にとって、彼は恩人だった。でも、私は……彼の中での私は、トラウマとなっていた。

 あの大雨で流され死んだ私は、天に昇ってずっと彼を見ていた。

 あれから、彼はずっと私のことを後悔していた。それが苦しくて、見ていられなくて、私はここへやってきたのだ。神様と、一年限りで戻るという約束をして。

 そうして、隣人として出会いからやり直してみれば、彼は完全に人生をこじらせていた。

 だけどあのとき、私は確信した。

 キセキを拾ったあのとき――キセキは、ぜんぜん声なんてあげられる状態じゃなかった。

 でも君は――今にも消えそうなキセキの声に気付いた。

 君はどうしたって優しいんだ。

 猫を遠ざけながらも、見つけてしまう。猫を愛してしまう。

 そんな君が、私は今も昔も大好きなんだ。

 だから、君が前を向けるように、私はこの一年、キセキと頑張った。

 その結果、君は今前を向いて歩き出そうとしている。

 さよならは悲しいけど、でも今の君ならもうひとりでも大丈夫。いや、ひとりじゃないか。今の君にはキセキがいるから。

 あの河道で佇んでいると、列車が到着した。

「どちらまで?」

「空の彼方、幸せの南十字まで」

 ガタンゴトン。

 車窓から流れる銀河の景色を、ぼんやりと眺める。

「……本当は、言いたかったな」

 ぽつりと呟く。

 私がミィだよって言ったら、君はどんな顔をしたかな。きっと驚いて、信じてくれないんだろうな。

 そんな君に、私は私しか知らない君のことを話してみたりして。そうしたら君は、きっともっと驚いて。

 それでようやく、本当渋々といった感じで信じてくれるんだろう。

 私がミィだって分かったら、また頭撫でてくれるのかな。……撫でてほしいなぁ。

 人の姿になってからは、ちょっと距離が遠かったから。

 君とお話ができるのはすごく嬉しかったけど、私はやっぱり、人間より猫のほうがあってたみたい。だから……次に生まれ変わったらまた、私は猫がいい。

 猫になって、また君のいちばんの友達になりたいな。

「欲を言ったら、もう少し……一緒にいたかったけれど」

 君との一年はあっという間だった。

 猫の姿ではたった二週間ほどしか同じ時間を過ごせなかったというのに、こうして出会ってしまうと、こんなにも欲があふれてくるものなのか。

 まったく、なんてことだ。

 小さく肩を揺らしていると、膝の上にあったコンビニ袋がかさりと音を立てた。

「あ……」

 別れ際に彼がくれたコンビニフードだった。最後の別れの挨拶でコンビニフードを渡すなんて、と思うけれど。

 まぁ、彼にとっては、たった一週間の別れなのだから、仕方ない。

「帰ってこなかったら心配するかな……でもまぁ、すぐに私のことなんて忘れちゃうか」

 袋の中身を見ると、そこには私の大好物の鮭おにぎりとツナマヨおにぎり。それから唐揚げに……。

 下のほうに缶のようなものが入っていることに気付いて、袋を漁る。取り出してみて、息が詰まった。

「猫、缶……?」

 それはかつて――私が猫だったときに、好きだったもの。私を拾ってくれた彼が、私によくくれていた猫缶だった。

 その猫缶のプルタブには、小さな紙切れが挟まれていた。

 抜き取り、開く。

 そこには、たった一文、書かれていた。

『僕はもう大丈夫だから心配しないで、ミィ』

 一瞬にして視界が潤んだ。

 ぼろぼろと涙が頬をつたっては膝に落ちる。ごし、と目元を服の袖で乱雑に拭っても、涙は止まりそうにない。

「もう……君には敵わないや」

 猫缶を見ながら、泣き笑う。

「こんな仔猫用の猫缶なんて、もうずっと前に卒業したってば……」

 小さく文句を呟きながら、猫缶を開ける。

 車窓には、耳を垂らしてしっぽをパタパタと揺らすミィの姿が映っていた。

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