第三十七話 告白と敵討ち

 沙織と水際は狼人から降りて目配せを交わし、沙織は広海に、水際は航に駆け寄っていった。雪子も狼人から飛び降りて凪の手を取り、


「凪さん……凪さん……!」


 凪を死の淵から呼び戻そうとするかのように繰り返す。微笑んだつもりだったが、実際には頬が引きつっただけだったかもしれない。


 一方、沙織はたもとから二枚貝を取り出して開き、丸薬と思しきものをつまみ出した。広海は口を開け、沙織はそっとそこに丸薬を投げ入れる。


 広海の体が縮んでいき、色が赤みと黄みを帯びていき、純白の髪と着物が現れ、鼻が低くなり、胸鰭は手に尾鰭は足になり、背鰭と腹鰭と尻鰭が消え――。


 完全に人間の青年の姿になると、


「凪!」


 広海は足をもつれさせながら凪に駆け寄ってきて、壊れ物を扱うように抱き上げた。


「ひろみさま……どうやって……?」


 唯一の懸念が解消されたことに安堵しながらも、凪が疑問を口にすると、


「言っただろう? 鮫人や手術を受けた人間が、陸の環境にも適応できるようになる薬もあるって」


 広海は泣き笑いのような顔をした。


 そうだ。すっかり忘れていたし、だとしても――。


「でも、それはふたつきくらいしかきかないし……いちどしかのめないって……」


 王としての任務を果たすために、陸に上がらなければならないこともあるはずだ。軽々しく薬を飲むわけにはいかないだろうし、薬を飲まなければならない状況自体、できるかぎり避けなければならないのではないだろうか。


 そんな凪の心情を察したように、広海はゆっくりとかぶりを振った。


「私はあの男を殺したことを後悔していないし、これからも後悔しない自信がある。私にとって君よりも大切なものはないし、君を虐げる者ほど憎むべきものはないんだ。たとえ王として失格だとしても……」


 私にとって君よりも大切なものはないし、君を虐げる者ほど憎むべきものはない――。


 そのことばが、紙のように白くなった凪の頬に、わずかながら血を上らせた。体は冬の山のように冷えきっているのに、心は春の野原のようにぽかぽかと温かくなっていく。


「大丈夫、君は絶対に死なない。必ず助かる……」


 凪に負担のかからない範囲で急いでいるとわかる速度で、広海は海へと歩き出した。沙織も雪子も狼人たちも、航に肩を貸した水際もあとを追ってくる。


 また、真帆さんが助けてくれるのかな……。義彦様に刺されたときよりも出血がひどいような気がするけど……。


 広海のことばには奇妙な確信のようなものがあり、気休めとは思われなかったが、自分の命はもう風前のともしびで、龍宮にたどり着けても手遅れであるようにも思われた。


 死ぬのは怖くないけど、生まれてきてよかったっていまなら心から思えるけど、わたしが死んだら広海様はきっと悲しまれる。悲しんでしまわれる。それはいやだ……。


 葛藤に苛まれているうちに、広海は波打ち際を越え、凪の意識には今日二度目の闇のとばりが下りた。


     ***


「正彦のやつ、何てケチなんだ。褒美がこんな安酒とするめだけだなんて」


 健三は独りごちて盃をあおった。もっとも本当は、彼に文句を言える筋合いなどない。盃に入っているのはその「安酒」であり、肴にしているのはその鯣なのだから。


「あとは、あいつの毛皮がいくらで売れるかだが……」


 くちゃくちゃと鯣を噛みながら、物置きに放りこんだ狼の死体を思い浮かべて勘定を始める。


 と、外で狼の唸り声がして、


「ひゃあ!」


 健三は情けない声を上げて盃を取り落とした。盃はカツンという音を立てて板の間を転がっていく。


 まさか、あいつが生き返った……? いや、もともと死んでなかったのか……!?


 そんなはずはない。たしかに脈が上がっていることを確認したし、あんなに冷たくなっていたのだ。酒のせいで幻聴を起こしているだけだ。


 だが声はやまず、あまつさえ戸に何かが体当たりする音まで聞こえ、振動まで感じられるようになった。


「ひぃぃぃっ……!」


 健三は腰を抜かして尻であとずさり、着物の股間の部分にはじわじわと染みが広がっていく。


 粗末な戸はあっけなく破られ、全身の毛を逆立てた狼が姿を現した。健三がいまのいままで勘定の種にしていた狼よりもなお大きく、獣とは思われぬ存在感を放っている、銀灰色の毛皮に黄金色の目の狼だ。


 狼はじりじりと間合いを詰めてきて、ふいに姿勢を低くした。


「や、やめ、やめろ……やめてくれ……」


 震える手を突き出して哀願したが、狼が耳を貸してくれるはずもなく、牙を剥き出して健三に飛びかかってくる。


 こいつはあの狼の仲間……いや、あの狼の群れのかしらなんだ。おれに復讐しに来たんだ……。


 唐突に、本能的に理解した健三のたるんだ喉に、月長石のような牙が食いこんで突き破った。

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