第三十六話 もうひとつの姿

 凪は狼人から飛び降りた――というよりも滑り落ちた。航もあわてて狼人から飛び降り、凪を乗せていた狼人は気遣わしげに凪に鼻を寄せる。


「広海様、広海様っ……!」


 いますぐ駆け出して海に飛びこみたいのに、打ち据えられた体は言うことを聞かない。


「凪さん、無理しちゃだめだ! ええと……ごめん」


 航が遠慮がちに凪を抱き上げた。かつては航が身を乗り出してきただけでおびえていた凪だったが、いまではもう安心して身を委ねることができる。凪を乗せていた狼人が、二人を力づけるように一声吠えて村に駆け戻っていった。


「どこに行くんでしょう……?」


 誰にともなく尋ねると、一瞬の沈黙ののち、


「武雄さん……凪さんを連れてった狼人さんを撃ったひとのところにね、敵討ちに行くの」


 沙織が口を開いた。


「狼人の世界にはいくつか掟があって、そのひとつが、狼人が人間に殺されたら、狼人の王様は敵討ちをしなくちゃいけないってものなの」


「そんな掟が……」


 掟の内容のみならず、凪の乗っていた狼が狼人の王だったということにも驚いた。道理で並外れた威厳と風格があり、沙織が「このひと」ではなく「この方」と呼んでいたわけだ。狼人の王の背に乗せてもらっていたなんて、知らなかったとはいえ何と畏れ多いことをしていたのだろう。


 健三も、いくらあの狼人を撃ち殺し、凪を銛田家へ連れていった男とはいえ、狼人に噛み殺されるなんて気の毒だと思わなければならないのだろうが、さすがの凪もいまはそんな気分になれなかった。と、


「で……あ、あのね、実は鮫人の世界にもいくつか掟があるんだ」


 沙織が口ごもりながらも続けた。


「これは精神的なところじゃなくて肉体的なところで、絶対に破れないものなの。破ろうとしても、体が勝手に動いちゃって従わずにはいられないの……」


「そうなんですね……」


 相槌を打ちながらも、沙織がなぜ突然こんなことを言い出したのか、なぜこんなに言いづらそうなのかがわからない。


 だが、凪の疑問は狼人たちの唸り声と馬のひづめの音に掻き消された。はっとして振り向くと、馬にまたがった正彦と義彦の姿が目に飛びこんでくる。


 そうだ、銛田屋敷では、漁獲物を運ぶために馬を飼っていたのだ。しかも二人は厳めしい猟銃を構えていた。


 航を乗せていた狼人が二人めがけて駆け出したが、たどり着く前に、正彦の銃口が狼人を向いて、義彦の銃口が航を向いて火を噴いた。二人はよけきれず、正彦の銃弾が狼人の頬を、義彦の銃弾が航の脇腹を切り裂いて血が飛び散る。


 狼人は横転し、航は凪を取り落としこそしなかったものの、膝を突いてしまった。凪の頭ががくんと後ろに倒れ、肩で激痛が炸裂する。贄として捧げられる前、義彦に匕首あいくちで刺されたときに似た壮絶な痛みが――。


「動くな!」


 義彦の一喝が響いた。沙織も水際も雪子も狼人たちも、凍りついたように静止する。傷を負った狼人と航でさえ、必死に動きを抑えようとしていた。


「凪の頭を吹き飛ばされたくなければ、玉手箱を持ってこい」


 命じることに慣れきった者特有の尊大な口調で、正彦が言った。ひとの姿の鮫人たちは顔を強張らせ、鮫の姿の鮫人たちのあいだにも動揺が走ったように見える。


 玉手箱……? 玉手箱って何……?


 朦朧とした頭に疑問が浮かんだ。しばらく龍宮で暮らしていた凪も見たことも聞いたこともない。


「その顔を見るかぎり、玉手箱ってのは本当にあるんだな!? 何でも願いを叶えてくれるってのも本当なんだな!?」


 その「願い」がろくでもないものであることを如実に物語っている醜悪な顔で、義彦が言った。


 義彦は左側に回りながら、じわじわと凪に近づいてくる。その銃が再び火を噴き、凪のふくらはぎから血がほとばしった。先刻よりも遠く感じられる痛みが、かえって恐ろしい。


「頭を吹き飛ばしてやるのもいいが、こうやってひとつずつ体に穴をあけてやるのも……」


 義彦が一方の口角だけを上げ、もう一歩踏み出したときだ。


 突然、純白の頬白鮫が――広海が身をひるがえして沖へと泳ぎ出した。


「ああ? どうした? 伝説の大鮫様よ、こいつを見捨てるのか?」


 義彦のことばが、銃弾よりも深く凪の胸をえぐる。


 広海様、遠ざかっていらっしゃるの? 玉手箱ってそんなに大事な……ひょっとして、さっき沙織さんが言ってた掟のなかには、鮫の王様は玉手箱を守らなくちゃいけないっていうものもあるの……?


 だとすればしかたない――いや、「しかたない」なんて傲慢なことばは使うべきではないと自分に言い聞かせたが、胸の痛みは微塵もやわらぎはしない。


 だがむろん、それは凪の大いなる誤解だった。


 凪には見えなかったが、広海は一町――約百メートルほど進むと、獲物を襲う前の頬白鮫らしくぐるりと白目を剥き、再び身をひるがえして戻ってきたのだ。


 ――そして、人間の姿のときからは想像もできない優美さと華麗さで跳躍し、空中で身をよじった。


 義彦は銃を持っていることも忘れているのか、ただただ目を丸くしてあんぐりと口を開けている。その体に、広海は横から食らいついた。


「――……あ、ああ…………」


 義彦の開いたままの口から呻き声が漏れ、血と唾液の泡がごぼりとあふれる。その体も、地面の砂も、広海の歯も口もあぎとあけに染まっていく。


「ひろみ……さま……」


 あれが広海のもうひとつの姿なのだ。凪にとってはあれほど強大な存在だった義彦を一瞬で噛み殺すことのできる、神にも等しい大鮫――。


 わたしはとんでもないひとを好きになってしまったんだ……。


 皮肉なことに、凪はこのとき初めて広海への恋心をはっきりと自覚した。


「う……うわあああああああああ、うわあああああああああああっっっっっ!!!」


 正彦が壊れたように絶叫し続ける。だが、それでも彼は息子より少しは冷静だった。ガチガチと歯を鳴らしながらも広海に銃を向け、引きがねを引こうとしたのだ。


 もっとも、その弾が広海に当たることはなかった。航を乗せていた狼人が怪我を押して起き上がって再び駆け出し、沙織を乗せている狼人もあとに続いたのだ。沙織を乗せている狼人は航を乗せていた狼人を追い抜き、正彦の脚に食らいついた。


「ぎゃあああっ!」


 正彦は尻を突き、その拍子に発射された銃弾は明後日の方向へ飛んでいく。続いて、航を乗せていた狼人が正彦に飛びかかって押し倒し、その喉笛を噛みちぎった。狼人の口から白と赤の肉片が投げ捨てられるのが凪にも見え、吐き気を催してしまう。おびただしい出血と虚ろな目が、正彦が声を上げる間もなく絶命したことを表していた。


 銛田家の当主と跡取りは死んだのだ。もう二度と、凪は二人に殴られることも蹴られることも罵られることもないのだ。喜びや爽快感はなかったが、心の底から安堵していることは間違いなかった。


 だがそれも束の間、凪の胸には新たな不安が暗雲のように押し寄せてきた。


 自分も死ぬかもしれないという不安ではない。広海や仲間たちと再会できたいま、雪子の――人間の善意を知ったいま、凪は死を恐れてはいなかった。


 凪の不安は、広海が無事に海に戻れるのかというものだった。


 ――広海のもうひとつの姿を目の当たりにしてもなお、凪の想いは変わらなかったのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る