第三十三話 尋問


「……凪が、生きていた」


 早朝から呼びつけられてささくれ立っていた義彦の心は、正彦のそのことばで一気に浮き立った。


 凪が贄として捧げられてからというもの、雪子をいたぶって嗜虐心をなだめていた義彦だったが、雪子は凪ほどには哀願のことばを口にせず、物足りなく思っていたのだ。むろん、そういう子どもが泣きすがってくるまでいたぶるのも楽しいだろうが、そうすると今度は使い物にならないほどの大怪我を負わせてしまい、義彦自身が正彦に叱責されることになりかねない。


 もっとも、さすがの義彦も喜んでばかりはいられなかった。不覚にも、薄ら寒さに肌が粟立ち産毛が逆立つ。


 凪はおれがこの手で刺して海に放りこんだ。大鮫に食われなくても、溺れ死ぬか出血多量で死ぬかしたはずだ……。


 疑問を口にするまえに、


「私も、凪が運びこまれてきたときは我が目を疑った」


 正彦は珍しく義彦への共感を見せて言った。


「しかも、おまえが腹を刺した傷も消えていたんだぞ」


「なっ……!」


 義彦は絶句した。最先端の西洋医学をもってしても、ふた月も経たないうちに、あの傷を跡形もなく消すことなどできないだろう。


「大鮫様は実在するのかもしれん。凪を気に入り、食らうのではなく命を救ったのかもしれん……」


「そんな馬鹿な……」


 思わずつぶやくと、正彦はむっとしたように義彦を睨んだ。


「では、ほかに凪が生きていた理由や、腹の傷が消えていた理由を説明できるのか?」


 そう言われると、義彦も黙りこむしかない。


「もしもそうなら、あの伝説もまことなのかもしれん。大鮫様が玉手箱を守っているという……」


 再び「そんな馬鹿な」と言いそうになって口をつぐんだ。


 大鮫が玉手箱を守っているなどという伝説は、大鮫に贄を捧げれば豊漁になるという迷信以上に荒唐無稽だ。そのためか、後者のように村人たちの口のに上ることも少なかった。


 その一方、玉手箱が実在したらという夢想も浮かばないわけではない。蓋を開けた者の願いを何でもひとつ叶えてくれるという万能の箱――。


「いずれにせよ、凪が誰に助けられたのか、いままでどこでどうしていたのかは聞き出しておきたい。その役目はおまえに任せる」


 正彦のことばに、義彦は有頂天になった。ありとあらゆる拷問方法が脳裏を埋め尽くし、ひとりでに口元がゆるんでしまう。正彦があきれたようにため息をついた。


「……聞き出すまえに殺してはならんぞ」


「ご心配なく。こういったことは得意ですから。でなければ、とうに凪を嬲り殺していましたよ」


「そうだな。――ああ、凪はみそぎのときと同様、離れのいちばん奥の部屋に閉じこめてある」


「承知しました。朝餉が終わったらさっそく向かいます」


 義彦は生まれて初めて心から父に頭を下げ、足どりも軽く部屋をあとにした。


     ***


 目を覚ましてからずっと、凪は恐怖で正気を失いかけていた。


 凪がいるのは、禊のあいだ閉じこめられていた部屋だ。首枷を嵌められ、鎖で天井につながれているのもあのときと同じ。針で刺された痛みや、煙草の火を押しつけられた熱さや、濡れた紙で鼻と口をふさがれた苦しみが思い出され、呼吸もままならなくなっていた。もう、この状況を乗り越えられるかもしれないなんて思えない。頭は歯車の錆びついた時計のように、すっかり動きを止めている。


 ふいにつっかい棒の外れる音がして、


「ひっ……!」


 凪は頭を抱えて体を丸めるという、身に染みついてしまった防御の姿勢をとった。それでも目だけは恐る恐る上げ、戸のほうを見ずにはいられない。


 戸を開けて現れたのは、やはり義彦だった。ぎらぎらと輝く目、いびつな笑みを浮かべた口元、手にしているのは――鞭と竹棒。


「ひ……」


 目を逸らしたいのに逸らせない。視線が義彦に糊づけされてしまったかのように。首から上が石と化してしまったかのように。


「また会えて嬉しいぞ、凪。しかも今度は、音や声が外に漏れても問題ないときている」


 義彦はゆっくりと近づいてきて、凪の手の届かない位置に竹棒を置いた。手に残った鞭で、何度か軽く自分のてのひらを叩く。その音で十分に凪をおびえさせてから、凪の腕に鞭を叩きつけた。


「あああっ……!」


 倒れた凪を蹴ってうつぶせにし、今度は背中を滅多打ちにする。


「や、やめっ……いやあああっ……! あっ、あうっ、うぐあああああっ……!」


 背中が焼け爛れていくような痛みに、凪は悲鳴を上げつづけた。まともな人間の胸ならえぐらずにはいられない――だが、義彦のような人間の胸は躍らせるばかりの悲愴な声を。


 凪の着物がぼろぼろになり、背中が蚯蚓みみず腫れの桃色と血の深紅のまだらに染まったころ、


「なぁ、おまえは誰に助けられたんだ? いままでどこでどうしていたんだ?」


 義彦はようやく手を止め、凪の喉に鞭を当ててねちっこく尋ねた。


 誰に助けられ……いままでどこにどうして……。


 そのことばで、広海や真帆たちの姿や声が、龍宮や海の街の様子が、凪の脳裏に鮮やかによみがえった。


 大鮫に――鮫の王に助けられ、龍宮で何不自由なく暮らしていたと言っても、義彦は信じないだろう。万一信じたとしても、海の底にある龍宮を見つけることなどできないにちがいない。


 それでも、言いたくなかった。大切なひとたちのことを、大切な場所のことを、残虐非道なこの男には決して。言ったら汚され冒され踏みにじられてしまうような気がした。


 だから、凪はかぶりを振った。生まれて初めて、義彦の意思に背いた。


「おまえ……!」


 義彦の驚愕の表情は、みるみるうちに憤怒の形相へと変わって  いく。怖くて怖くて体が凍りつきそうだ。心臓が壊れそうだ。それでも凪は残された力を振りしぼって唇を噛み、きゅっと義彦を見据えた。


「おれの問いに答えないなんて……このっ、このっ、このっ!」


 義彦は何度か凪の頬を打ってから鞭を投げ捨てた。頬が腫れ上がってずきずきと痛み、唇は切れて血が流れ、視界は霞んで頭はくらくらする。


 義彦は代わりに竹棒を拾い上げ、凪の背中に振り下ろした。


「くうっ……!」


 傷の広がる痛みと骨も砕けそうな衝撃に、もう悲鳴も上げられない。口から漏れたのは小鳥が握り潰されたかのような呻き声だけだ。


「おれに逆らったこと、後悔させてやる! あとで泣いてもわめいても遅いぞ!」


 義彦は目を血走らせ、満面に朱をそそぎ、狂ったように――いや、完全に狂気に陥って竹棒を振るいつづけた。

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