第二十五話 葛藤

 一ノ城の最上階にある自分の部屋のふすまを閉めるなり、広海はため息をついた。明暗どちらの思いも含まれたため息を。


「明」の思いはむろん、凪と一日中一緒にいられ、しかもその時間が、怪盗疾風はやての狙っていた黒真珠よりも美しい宝石のようなものだったこと――凪にとっても同様だったらしいことによるものだ。


 車から見える景色や本屋の店内に目をみはる凪、広海の贈った本を抱きしめる凪、「美味しい」という広海のことばに顔を輝かせる凪、活動写真に見入る凪、興味深げに鮫焼を見つめる凪――どんな凪の姿を思い出しても口元がほころんでしまう。それは、今日の姿にかぎったことではなかったが。


 一方、「暗」の思いは、皮肉にもその「明」の思いから生じるものだった。


 会うたびに――いや、会わなくても凪に惹かれていく自分を止められない。


 凪本人にも言ったように、彼女がここで少しでも気持ちよく過ごせるように力を尽くしたかったし、力を尽くさなければならないと思っていた。だが惹かれてはならないと、のだと、あれほど自分に言い聞かせていたのに――。


 数日前、「凪さんに海を案内してあげたらどうですか」と航に勧められたとき、広海は返答に窮した。そんなことをしてしまったら、もう歯止めが利かなくなるような気がしたからだ。だが、


「お気持ちはわかりますが、凪さんと距離をとられることが、お二人にとって良いことだとは思えないんですよねぇ」


 航は珍しく難しい顔をした。


「ただでさえ陛下はご自分を抑えがちなんですし……まぁ、お酒を飲まれることについては例外ですけれど」


「でも、このまま少しずつ距離をとっていけば、凪はいずれ私のことなんて気にしなくなるんじゃ……。次第では、ほとんど思い出すこともなくなるかもしれない」


「凪さんがを選択するとは思えませんが、それはそれとして……」


 航はにやりとしておとがいを撫で、


「つまりさすがの陛下も、凪さんが陛下に好意を寄せていることには気づいていらっしゃるわけですね?」


「そりゃあ……」


 広海は墓穴を掘ったような気分で目を逸らした。


「嫌われているとは思っていないよ。でもその好意が……こ、恋心だと決まったわけじゃないだろう。歳だって……見た目のうえでの歳ですら、だいぶ離れているんだし……」


「本気でそう思っていらっしゃるんですか?」


 航は目を真ん丸にし、嘆かわしげに肩をすくめてかぶりを振ってみせた。


「どう見ても、凪さんが陛下を見る目は恋する乙女の目ですよ。おれは数々の女性に言い寄っては袖にされてきましたからね、そういうことを見分けるのはうまくなったんです」


 どんと胸を叩く航に素直に感心し、


「……わかった、わかったよ」


 広海はとうとうその勧めに従うことにしたのだった。


 だからといって、航を責めるつもりはみじんもない。誰に何と言われたとしても、結局自分の行動を決めるのは自分なのだし、そもそも航に相談を持ちかけたのはほかならぬ広海なのだ。


 むしろ、広海が責めているのは自分自身だった。


 凪に料理のお礼をしたいと思ったこと自体が間違っていたとは思わない。だが、その思いは胸に秘めておくべきものだったのではないだろうか。仮に何らかのかたちで表すとしても、ちょっとした贈り物をする程度に留めておくべきだったのではないだろうか。


 別れの挨拶を口にするまえ、凪がにじませていた期待の表情と、口にした瞬間に浮かべた落胆の表情が脳裏によみがえり、広海は頭をかきむしりたくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る