第二十三話 海案内(四)

 車に乗りこみ、蒼い世界をさらに進んだ。やがて、先程の街より一回り小さい街が見えてくる。凪と広海、青鮫人二人は再び別行動をとり、門の前で待ち合わせすることにした。


 この街は先程の街と異なり雑然としていたが、そのぶん活気に満ちていた。芝居小屋や見世物小屋も多く、あちこちに色とりどりののぼりが立っている。


「この街は、この国でいちばん活動写真館が多いんだ」


「かつどうしゃしんかん……?」


「ええと……公園より説明が難しいな。やっぱり百聞は一見に如かずだね」


 連れていってもらったのは、幟と提灯で飾られた和洋折衷の建物だった。なかには座布団が並んでおり、前方には白い幕が、後方には車輪のようなものや歯車のようなもののついた黒い機械がある。


「あそこに座ろう」


 前から二列目の二つ並んで空いている席へ、広海は向かった。凪が左の席に腰を下ろそうとすると、


「こちらに座るといい。前の席のひとの背が……高くないから」


 ささやきかけて右の席を目で指してくれる。凪はお礼のことばとおじぎで応え、そちらに腰を下ろした。広海もあとに続き、


「君には想像もつかないようなことが起こると思うけれど、絶対に危ないことはないから心配しないで」


 凪の手を握って言う。


 銛田家にいたときの凪だったら、「想像もつかないようなことが起こる」と言われたら、心配どころか恐怖せずにはいられなかっただろう。


 だが、いまの凪は違った。龍宮に来てからは想像もつかないことの連続だったし、何よりも心から広海を信頼している。胸に生じたのは心配ではなく、広海に手を握られたことにどきどきする気持ちと、その手が一瞬で離れてしまったことにがっかりする気持ちだった。


 やがて館内が暗くなり、幕のそばに中年の男が現れて、幕には白黒の景色――森のなかの洋館が映し出された。もっとも森のまわりはやはり海のようで、魚や鯨や海月くらげが遊んでいる。――そう、その景色は動くのだ。


 よく見ると木々はそよいでいたし、洋館は少しずつ大写しになっていた。驚くのを通り越して混乱していた凪だったが、広海のことばを反芻はんすうしていると心が落ち着いてきた。


 洋館の大きさが幕の二回り弱になったころ、景色が替わり、立派な洋装の老紳士が手紙を読んでいる姿が映った。その顔はみるみるうちに険しくなっていく。


「彼は宝飾業にて名を馳せし実業家にしてこの館のあるじ財前ざいぜん莞爾かんじ……」


 幕のそばの男が、よくとおる声と小気味良い口調で語り出した。


 三月三日の真夜中に、財前秘蔵の黒真珠「黒龍の卵」を盗みに行く――それが手紙の内容だった。差出人の名前は「怪盗疾風はやて」。


 財前は厳重に警備を固めたが、三月三日の真夜中過ぎに「黒龍の卵」をあらためると、磁器製の偽物にすり替わっていた。すぐに屋敷と森を捜索したが、不審者はどこにもいない。


 翌日、怒り冷めやらずにいる財前を、彼の息子が庭に連れ出した。二人で紅茶を飲んでいると、ふいに息子が胸ポケットから「黒龍の卵」を取り出し、人間の顔そっくりの仮面を剥ぎ取った。疾風はいつの間にか息子になりすまし、三月三日になる前に「黒龍の卵」を盗んでいたのだ。


 飛びかかろうとする財前に、もう一方のポケットから取り出した拳銃を向ける疾風。今度は使用人たちを呼んだ財前だったが、彼らが駆けつける前に、疾風はその名に恥じぬ俊足ぶりを披露して姿を消してしまった。


 物語は単純だったが、目の前で本当に事件が起こっているかのような臨場感に、凪は数日は眠れないのではないかと思うほど興奮した。活動写真館を出ても、まだ物語の世界にいるような気がする。


「どうしたらあんなふしぎなことができるのでしょう……」


 うっとりとつぶやくと、


「おやおや、人間から見れば、海のなかに城や街があることや、鮫の姿にも人間の姿にもなれる種族がいることのほうがふしぎなはずだけれど」


 広海は優しいからかいを含んだ微笑を浮かべ、


「そ、そういえばそうですね……」


 凪は自分の感覚がふつうの人間からずいぶん外れてきていることを実感した。


「活動写真のしくみは……まず、ただの写真の説明からしたほうがいいかな。障子にあいた穴から光が入ってきて、壁に上下逆さまの景色が映っているのを見たことはない?」


「あ、ありませんが……いえ、見過ごしていたのかもしれませんが、どうしてそんなことが起こるのですか?」


「あっ、そうか、なかったか……」


 広海は自分を恥じるような顔でつぶやき、


「ええと、ものが目に見えるのは光を反射しているからなのだけれど、小さい穴から光が入ってきた場合……」


 あごにこぶしを当てて首をひねっていたが、


「すまない、私にもうまく説明できない……。今度図書室で調べてみるといいよ」


 やがて文字どおりお手上げをした。


「あんなに自信満々に説明を始めたのに、こんなにすぐあきらめるなんて情けないなぁ」


「いいえ、お気になさらないでください。それほど自信満々でいらっしゃったわけでは……」


 また失言しそうになったことに気づき、あわてて口をつぐんだ。いや、これはもう失言したといったほうがよいだろう。


「ご、ごめんなさい……」


「あれ、駄津にはなれなくても、秋刀魚くらいにはなれるように努力するんじゃなかったのかい?」


「いまのことばは、真帆さんや航さんよりも率直だったと思いますが……」


「う、うーん……凪は率直ということばの意味を勘違いしているようだね」


 本気で悩んでいる様子の広海に、凪は笑みを誘われた。しおれた花が水をかけてもらったように、心が起き上がっていく。


「ところで、おやつでも食べないかい?」

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