第十八話 広海の誘い

 それから、凪は週に六日は昼餉と夕餉のしたくを手伝うようになった。本当は毎日手伝いたかったのだが、ここでは使用人も一週間に一日は休める――というより休まなければならないそうだ。


 広海に会いたいという思いは日に日に強まっていったが、どれほど気さくでも広海は鮫の王、本来自分などが気軽に会ってよい相手ではないのだ、広海の食事を作る手伝いができるだけで満足しなくては、と自分に言い聞かせていた。


 だが、ある日の昼下がり、図書室で次に借りる本を選んでいると、


「凪……やっぱり、ここにいたんだね」


 広海に声をかけられた。


「広海様、ええと……ご無沙汰しております」


 どぎまぎしながらおじぎをする。「ご無沙汰しております」というあいさつがふさわしかったのか、急に不安になった。


「ああ、うん……。実は、君に話があってね」


 広海は気まずそうで、凪はますます不安になる。


 もしかして、もうここを出ていけって言われるんじゃ……。


 そう思っただけで体が冷え、膝が折れそうになった。陸に――銛田家に帰りたくない。ずっとここにいたい。


 よほど感情が顔に出ていたのだろう、


「わ、悪い話じゃないから心配しないで。ここじゃあ何だから談話室に行こうか」


 広海はあわてて凪の肩を叩いた。安堵したものの、話の内容が見当もつかないことに変わりはない。


 談話室には和風の空間も洋風の空間もあるが、広海は凪に配慮したのか和風の空間を選んだ。


「飲み物をもらってくるよ。何がいい?」


 そう言われても、凪はお茶くらいしか知らない。


「で、では、広海様と同じものを……」


「わかった。ちょっと待っていて」


 戻ってきた広海が持っていたのは、粒状のものが入った白い飲み物だ。


「どうぞ、甘酒だよ。熱いから気をつけて」


「えっ……? あ、あの、わたしお酒は……」


「大丈夫。これには酒という名前がついているけれど、酒精……お酒をお酒にしている成分は入っていないから」


 凪はほっとして、


「で、ではいただきます……」


 湯呑に口をつけた。甘くて香ばしくて濃厚で、飲み物というより菓子のようだ。


「とてもおいしいです……!」


 嘆声を漏らしたが、広海はまだふうふうと湯呑に息を吹きかけていた。凪の視線に気づき、


「その……私は猫舌なんだ」


 顔を赤らめる。


「鮫でいらっしゃるのに……?」


 つい思ったことを口にしてしまい、


「ご、ごめんなさい……!」


 真っ青になって謝った。いくら「委縮しないでほしい」と言われたからといって、ここで謝らないのはあまりにも失礼すぎる。


 だが、広海は気を悪くしたそぶりも見せず、


「そんな……むしろ嬉しいよ」


 春の日差しのような微笑を浮かべた。


「えっ? ど、どうして……」


「もちろん、君が初めて率直にものを言ってくれたからだよ。これからはもっともっとそうしてほしい。真帆や航の物言いを聞いただろう? 光を見つけた駄津だつも真っ青になるくらいまっすぐだったじゃないか」


 駄津というのは顎の尖った細長い魚で、光へ向かって突進する習性がある。龍宮の住人らしい比喩に、思わずくすりと笑ってしまった。


「で、では……駄津にはなれなくても、秋刀魚くらいにはなれるように努力します」


 真顔で言うと広海は吹き出す。恥ずかしくなってうつむいたが、


「その調子だよ」


 広海が嬉しげに褒めてくれたので顔を上げ、照れ隠しに甘酒をすすった。広海もようやく湯呑に口をつけて笑みくずれる。酒だけではなく甘味も好きなのだろう。


「ところで、話というのは……」


 そのことばでここに来た目的を思い出し、鼓動が速まった。


「その……君は料理を手伝ってくれているんだってね」


「は、はい……」


「そのお礼に、明日は海を案内したいんだ。ちょうど休日だろう?」


「えっ……?」


 こうしてひととき一緒にいられるだけでも嬉しいのに、明日は一日中一緒にいられるというのだろうか。それもまだ見たことのない場所、ここに来なければ一生見ることがなかったにちがいない場所で――。


「あっ、もちろん、ほかのことがしたければ遠慮なく断ってほしい」


 広海は言い足し、


「そんな……王様のお誘いを断るなんて……!」


 凪はぶんぶんとかぶりを振った。だがすぐに、広海がこういう言い方を好まないことに気づき、


「い、いえ……広海様のお誘いを断るなんて……」


 言い直した。と、今度は、これでは広海が自分にとって特別な存在だと言っているも同然だということに気づき、真っ赤になる。


「ありがとう……」


 広海も赤くなり、ごくりと甘酒を飲んだ。そういう飲み方をするにはまだ熱すぎたようで、


「んっ、んっ、んっ!」


 目に涙をにじませる。


「大丈夫ですか!?」


 凪が身を乗り出すと、


「あ、ああ……すまない。本当は私が君を気遣わなければならないのに……」


 広海は喉をさすって苦笑した。


「じゃあ、明日は十時に二ノ城の入口でどうだい?」


 むろん、凪に否やはない。


 その後は本や鮫人語の話をして、広海が甘酒を飲み終えたところで席を立った。図書室に戻る凪の胸と足どりは、かつてなく弾んだ。美しくやわらかくかぐわしい雲のなかを歩いているような気分だった。

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