1.泣きの芝居
私が曲がりなりにも『演劇』と言えるものを体験したのは、小学校に上がってからだ。演目は演劇の他に吹奏楽などもあって、幾つかの中から選択制だった。
私は一年生から六年生まで、迷わず演劇を選択していた。
中学年頃から演劇に明るい先生が赴任してきて、配役はなんとオーディション制となった。黒板に先生がなにかひと言台詞を書き、ひとりずつ前に出て台詞を演じ、その結果として役が割り振られる。
なんの邪気もない頃にこの経験をしたからこそ、オーディションで緊張しない性質が作られたのかもしれない。
忘れもしない五年生のとき、いつものように先生が台詞を書いた。台詞自体は忘れてしまったが、怒りと悲しみが入り交じった叫びだったのを覚えている。
練習などはせず一発本番な訳だが、私はその台詞を叫び、実際に泣いてしまった。そのお陰で、私はその年の主役に大抜擢された。
何処か切ない、子どもたちの心の揺れ動きを描いた作品だった。ラストシーン、主人公である私は、泣きながら歌唱する。
そこで先生から言われたのが、「お母さんが亡くなったと思って演じてみなさい」だ。
小学生にとって、実際に居る居ないには関わらず『お母さん』という存在は、おそらくとても大切だろう。
稽古でやってみたら、やはり泣いてしまった。私は右も左も分からない年齢のときに、先生のお陰でこの技術を修得した。
もちろんこれはあくまで『技術』で、本当の芝居と言うものは、登場人物の気持ちに添った涙が要求されると思うのだが。
その後、専門学校でも泣きの授業があってシチュエーションを自分で決めて良かったので、保育園からの幼馴染みに遠慮なく亡くなって貰った。
霊安室に入り、名前を呼び、顔にかけられた布をめくった瞬間、涙が溢れた。
講師の方のアドバイスとして、人間は泣くときに顔を覆ってしまいがちだ。私も俯いて口元を押えていた。
これも『技術』として、涙と顔をしっかり見せるといいとアドバイスを受けた。
そんな訳で、泣きの芝居に自信がないひとは、取り敢えず身近な誰かに亡くなって貰おう(笑)
大切なひとであればあるほど、感覚が掴めると思うのだった。
ちなみに「あ、泣きそう」と思ったときは鏡の前に走って、表情のメカニズムを研究していた。
涙は顎の先からワナワナと上に上がっていって、下まぶたで決壊するように流れ落ちる。
泣きや喜びはこうやって冷静に観察することが出来たが、自分には『怒り』がとてつもなく難しかったのはのちに記そうと思う。
何しろ怒っているときは怒っているので、表情や心情を観察しようなんて冷静さは全くない。困り果てたものだった。
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