第2話

 少女の言葉に男は目を見開いて、

「ど、どういう意味かな。僕が妻を何だって?」

 少女は黙って男をまっすぐに見つめている。

 それに気圧されたかのように、男は言葉を継ぐ。

「僕が妻を『わざと』精神的に追い詰めた? 一体何の冗談だい? 僕は作家として頑張る妻を、必死に支えてきたつもりだ。妻は連載や締め切りでいつも忙しかったから、料理や洗濯は僕がやっていた。深夜まで執筆する妻のために、毎日夜食の差し入れもしていた。妻が『体調が悪い』と言ったら、編集者の仕事を休んで、すぐに病院にも連れて行った。――僕は妻のことを第一に考えて行動してきた! これのどこが彼女を追い詰めることになったって言うんだ!」

「すべてです」

 感情を露わにする男とは対照的に、少女は感情を表に出さずに告げた。

「すべてだって? 何を言ってるんだ君は!」

「お芝居はもうやめましょう。あなたは奥さんに嫉妬していたのです。あなたは、本当は作家になりたかったのではありませんか? 編集者ではなく」

 男は不意を突かれたように固まった。

「あなたは作家としての奥さんの才能を羨んでいた。結婚してすぐは、あなたも心から奥さんを支えようとしていたのかもしれません。ですが、あなたは奥さんの期待に応えられず、奥さんもまた、あなたに期待するのをやめた」

「……そんなの、何の証拠があって――」

「先ほどあなた自身が言っていたではありませんか。結婚して半年もすると、奥さんは小説の内容について相談してこなくなったと。あなたは奥さんに見限られたと感じたのでしょう」

 男は黙っている。

「あなたは苛立った。これまで自分で自分のことを『才能がない』と思うことで、自分を慰めてきた。けれど、他者から『才能がない』と突きつけられることは、どうしても許せなかった。特に作家として才能のある奥さんに見限られることは、自分に才能がないことを証明されてしまった気がしたからです。――あなたは、奥さんをどうにかして苦しませる方法はないかと考えた。それであなたは、奥さんに『過度な』期待を寄せることにした。奥さん第一で行動することによって。――そういうのを嬉しく思う女性も中にはいるでしょうが、少なくともあなたの奥さんはそうではなかった。だからこその『あんたは、いつもいつも! もううんざりよ!』という彼女の言葉です」

 少女は一拍を置いてから、

「あなたが私に記憶を消してほしいとやって来たのは、自分が過去に犯した罪に耐えきれなくなったからでしょう? あなたは私に先ほど説明したことより、もっと積極的に奥さんの死に関わっていたのです」

 男はしばらく黙っていたが、

「……その通りだよ。僕は妻が羨ましかった。彼女の才能に嫉妬していた。始めは本当に妻を応援するつもりだったんだ。だけど、どうにも僕の中で歯車がうまく嚙み合わなくなってきて……。気づいたら、彼女をどうやったら『壊せるか』ばかりを考えていた。彼女の精神的な重しになるには、どうすればいいかばかりを考えるようになった。……信じてもらえるかは分からないけれど、彼女が転んでナイフを自分の喉に刺したのは、全くの偶然なんだ」

「そこは全く疑っていません。警察の捜査もあったでしょうから」

「……僕は、彼女に死んでほしいとまでは思っていなかった」

「ええ。その点は私には分かりませんが、もしそうだとしたら、今のあなたは自分の犯した重い罪に苦しんでいることでしょう。彼女を苦しませようとしたあなたが、結局のところ苦しんでいる」

「ほんとに、その通りだ」

 男は大きなため息をつくと、

「……嘘をついたんだ。記憶は消してもらえないよね」

 ベンチから立ち上がる。

 公園から立ち去ろうとする男の背中に、少女が声をかける。

「記憶は消します。三つの要件は満たしていますから」

 男は振り向いて、

「……本当かい?」

「ええ。本当です」

 男はベンチに再び腰を下ろすと、

「それは本当によかった! これからどうしようかと思っていたからね!」

 一転して笑顔を浮かべ、快活な調子で言った。

「じゃあ、お願いするよ」

「では、目をつむってください」

 男は目をつむりながら、少女に尋ねた。

「でも、本当に僕みたいな奴の願いを聞いてよかったのかい? 僕は妻を殺したも同然の酷い人間なんだよ? もしかしたら、この後で口封じしようと君に乱暴するかもしれない」

「あなたにそれはできません」

「へえ、よほど腕に自信があるってわけだね。確かにこんな夜更けに、女の子一人で出歩けるくらいだ。――分かった。君に手出しはしないよ。だから安心して」

 男は目をつむりながら両手を上げた。

「これから記憶を消しますので、私が大丈夫と言うまで目を開けないでください。約束が守られなかった場合は、命の保証はできかねます」

「ひゅー! おっかないね! 分かったよ。僕も命は惜しいからね」

 少女は「記憶をむモノ」だった。

 その体をゆっくりと変化させ、巨大な口を持つ、黒い大蛇へと姿を変えた。

 彼女は――男の頭にかぶりついた。

 それから、蛇となった少女は口を閉じたままで身を引き、人間の姿へと戻った。

 ――男の頭は、変わらずそこにあった。食べられてなくなった、ということもない。物理的な損傷は全く見られない。

 けれど――、

「あれ? 君は誰だい? こんな夜更けに、女の子が一人で出歩くなんて危ないよ」

 男は目を開けて、少女の顔を不思議そうに見る。

 ――

「はい。家に帰ります」

 少女はベンチを下りて、男に背を向けた。でっちようかんの入った袋を手に提げて。

 公園から去る少女に、男が声をかけた。

「君! 僕とどこかで会ったことがあるかな?」

 少女は振り返って、見るものに何も感じさせない瞳を男に向け、

「いいえ。私はあなたを知りません。あなたがどんな人であるのかも」

 それだけ言って、公園を去っていった。

 彼女は「記憶を喰むモノ」と呼ばれる存在。

 依頼者の望む記憶を喰うが、その事柄に派生した記憶も同時に喰う存在。

 男は妻の記憶を消すためにこの場にやって来た。もし妻の記憶がなければ、少女の存在を知ることも、彼女に会いに来ることもなかった。そういうわけで、男は少女と過ごした記憶も喰われてしまったのだ。

 真夜中の二時過ぎ、でっちようかんを持って公園のベンチに行く。

 そうすれば、望む記憶を消してもらえる。

 そんな噂が語り継がれる街で、少女は誰にもその存在を記憶されることなく、

 ――記憶を喰み続ける。

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記憶を喰むモノ まにゅあ @novel_no_bell

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