記憶を喰むモノ

まにゅあ

第1話

「君に頼めば、嫌な記憶を消せるって本当かい?」

 男は夜の公園のベンチに座っていた。くたびれたワイシャツに、色落ちしたジーンズといった格好だ。顔には疲労の色が窺えた。

「嫌な記憶に限った話ではありません。それがどんな内容の記憶であれ、いくつかの要件を満たしていれば、あなたは忘れることができます」

 彼の隣に座っていた少女が答えた。歳は十歳ほどに見える。歳の割には落ち着き払っている。その日に祭りなどの行事はなかったが、彼女は着物を身に着けていた。赤を基調とした生地に、蝶や花などの文様が優雅にあしらわれている。

「嫌な記憶を消せることは事実なんだね。聞けて安心したよ。それで、その要件と言うのは?」

 雛人形のような整った美しさを持つ少女は、淡々と答える。

「要件は三つです。一つ目は、消したい記憶の日時がはっきりしていること」

「ああ、それなら問題ないよ。一年以上も前のことだけれど、今でもはっきりと覚えている」

「二つ目は、これまでに一度も記憶を消した経験がないこと」

「うん、記憶を忘れようとしたのは今回が初めてだ。君と出会ったのも今夜が初めてだしね」

「それは誰でもそう言うでしょう」

「……どういう意味だい?」

 少女は長いまつげを伏せて、

「いえ、何でもありません。失言でした」

 小さく頭を下げた。

「そ、そんな、謝らないでよ。僕には君の『失言』が何のことだがさっぱり分からなかったし、何とも思っていないから」

「そうですか。お気遣い痛み入ります。では、三つ目の要件ですが――」

 少女は話を続ける。

「対価を支払うこと」

「ああ、それは話に聞いているよ。でも本当にこんなものでよかったのかい?」

 男は傍らに置いていたビニール袋を手に提げて言った。

「……こんなもの、ですか?」

 少女の眉がぴくりと動く。

「い、いや、記憶を消すなんて大層なことをしてくれるんだから、これくらいの『対価』で本当に十分なのかなって心配になったんだ」

「……構いません。対価はそれだけで十分です」

「そ、それならよかったよ」

 男は慌てて少女に「それ」の入ったビニール袋を差し出した。

 少女は受け取って中を覗くと、

「――確かに対価をいただきました」

 男が少女に差し出した「対価」とは――でっちようかんだった。

「『まるべ』のでよかったんだよね?」

「はい。ここのが一番おいしいのです」

 少女は努めて感情を抑えようとしているようだったが、言葉の端から喜んでいることが窺えた。でっちようかんは少女の好物であった。

 少女は膝上にでっちようかんの入った袋を置いて、

「三つの要件すべてを満たしていることを確認しました。では、あなたが消したい記憶について、できるだけ詳しく聞かせてください」

 男は頷いて、

「僕が消したい記憶というのは、――なんだ」

 男の告白に、少女が驚いた様子はなく、

「続けてください」

 淡々とそう告げた。

 男は、少女の淡白な反応に出鼻をくじかれたみたいで、言葉を詰まらせた。

「つ、妻を殺してしまったのは、去年の四月十三日だった。とてもショッキングな出来事だったからね、よく覚えているよ。時間はちょうど昼の十二時を回った頃だった。僕は家のキッチンで昼食の準備をしていた。そこに妻がやってきて――」

「メニューは何でしたか?」

「え?」

「昼食のメニューです」

「あ、ああ。ミートスパゲティだよ。妻の大好物なんだ」

「分かりました。話を続けてください」

 男は昼食のメニューを聞かれたことに戸惑った様子だったが、話を続ける。

「キッチンにやってきた妻は、『全然いいアイデアが浮かばない』とぼやきながら、冷蔵庫からビールを一缶手に取って、リビングのテーブルで飲み始めた」

「奥さんの言った『いいアイデアが浮かばない』とは何のことですか。彼女は、何か想像力を必要とするお仕事をされていたのでしょうか?」

「そうだね、まさにその通りだ。君も知っているかもしれないけれど、彼女は有名な作家でね。海樹かいき玄奏げんそうと言うんだけれど」

「私は小説を読まないものですから」

 暗に、知らない、と言われた男は、

「そ、そうなんだ。だったら知らないのも無理はないね。とにかくまあ、僕の妻は次に書く小説のアイデアに困っていたわけだ。『どうしよう、どうしよう』と頭を抱えながらビールを飲んでいたよ。これまでにも何度かそういうことはあったから、『昼間からのお酒はほどほどにね。今、君の大好きなミートスパゲティを準備しているから、これを食べたら、きっといいアイデアが浮かぶよ。君なら大丈夫さ』と僕はいつも通り、ちょっと気の利いた返事をしたつもりだった」

「あなたは奥さんに訊かなかったのですか。彼女がどんなアイデアについて悩んでいるのか、その内容を」

 男は寂しげに顔を伏せて、

「……僕に、一からものを創り出す才能はないからね。結婚してすぐの頃は、何度か向こうから相談されたこともあった気がするけれど、結婚して半年もすると、それもぱったりとなくなったね」

「あなたは何のお仕事をされていますか?」

「僕? 僕は編集者だよ。それがどうかしたかい?」

「いえ。――あなたと奥さんが出会ったきっかけは、編集者と作家という関係からでしょうか」

「そうだね。僕は彼女の担当ではなかったけれど、出版社に来ている彼女を見かけてね。一目惚れだったよ。それに、彼女の作品もとてもよかった。ああいう文章を書く人が、天性の才能の持ち主って言うんだろうな。心からすごいと思ったよ。僕は彼女の書く作品にも一目惚れしたわけさ。だから僕からプロポーズして結婚したというわけさ」

「ご説明ありがとうございます。四月十三日の話の続きをお願いします」

「どこまで話したかな。――そう、僕がビールを飲んでいる彼女に返事をしたところまでだったね。いつもの妻なら『ああそう』と一言返事があって終わりなんだけれど、その日は違っていてね。――急に怒りだしたんだ」

 男は声のトーンを上げて、

「妻はバンッとテーブルを両手で強く叩いてね、『あんたは、いつもいつも! もううんざりよ!』って叫んだんだ。僕はひどく戸惑ったよ。僕はちょうどそのときパスタを包丁で切っていたんだけれど、その手を止めて、『落ち着いて』と言いながら彼女のいるリビングへ向かおうとした。だけど、彼女がキッチンに来るほうが早くてね。キッチンにやって来た彼女は、僕がさっきまで持っていた包丁を手に取ると、『殺すわよ!』と物騒なことを言ったんだ。彼女はお酒の飲み過ぎで足取りが覚束なかったし、僕は『危ないよ』って言って、何とか彼女を止めようとしたんだ。だけど……」

 男は俯いて顔を横に振ると、

「妻は包丁を体の前で構えると、僕に突進してきてね。僕は咄嗟に身を引いて躱したんだ。酔っていたのもあったんだろうけれど、妻は途中で転んでしまってね。……自分の喉に包丁を突き刺してしまったんだ。僕は慌てて救急車を呼んだけれど、彼女は搬送された病院で息を引き取った……。本当に不運としか言いようがないよ。――一年以上経った今でも、彼女が死んだときのことを思い出して、眠れない夜が続いている。これ以上あの日のことを覚えていたら、気が狂ってしまいそうなんだ。だから、あの日のことを忘れようと思ったんだ」

 男は肩を落としながら、

「妻はよっぽど小説を書くことに苦しんでいたんだろうね。夫としても、編集者としても、僕は失格だ。彼女の苦しみを取り除いてあげられなかった。精神的な安らぎを与えてあげることができなかった。僕が彼女を殺してしまったも同然なんだよ……」

 少女の瞳には、何の感情も浮かんでいない。

 彼女は淡々と告げる。

「記憶の詳細は把握できました。では早速記憶を消しますが、よろしいですか?」

「え、あ、うん。お願いするよ」

 男は拍子抜けといった風だったが、すぐに笑みを浮かべてそう答えた。

 そんな男に、少女が言う。

「一つ、訊いてもいいですか?」

「うん、何でも訊いて」

 男は笑みを崩さない。

「では――」

 少女は何のためらいも感じさせず、


「あなたは、わざと奥さんを精神的に追い詰めたのですか?」


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