第10話
「本当に、良いのか?」
「はい」
返事をしたのは弥太郎だった。側には弥三郎もいる。弥三郎も、小さく頷いて同意を示していた。
二人は今日、剃髪して仏門に入る。
二人が寺に入ってから三年の月日が過ぎていた。あの日、拾った赤子は吾郎と名付けられ、年も三つになり、元気に育っている。
巌は本当に寂啓に言われた通りに近くの村で働き、母親たちから乳を分けてもらって赤子を育てた。そして、それ以上の働きをしたと、村からたくさんの謝礼をもらってきた。
また、巌は寺の雑務もこなしていた。その体力と素直な性格は誰にでも好かれ、寺の者のみならず、誰にでも頼りにされた。
思いがけず拾った巌は、今や寺にも、近隣の村にも無くてはならない存在となっていた。
寂啓は数度、巌に吾郎と共に村に住まないかと持ち掛けたことがあった。実際に村で巌に住んで欲しいと言ってきたところもある。だが、巌は決して首を縦に振らなかった。
「あの時、おれと吾郎を拾ってくれたのは御坊様でしょ。それに、一番手が要るのもこの寺じゃあないですか。おれはここで働くのが一番いいと思うんでさ。それに、おれは坊ちゃんたちも、御坊様も好きだから、離れたくねぇんで」
そう言って照れ笑いすると、恥ずかしそうに鼻を擦った。
当の本人にそう言われてしまっては寂啓も強くは勧められず、また、本心では巌の存在を有難く思っていたのもあり、そうか、としか言えなかった。
そうして、巌に支えられ、寺の生活は穏やかに過ぎていったのだった。
灰色の空から、静かに雨が降り始めた。それは細い銀糸のように静かに地に降りて来た。雨音もほとんどしない。それでも、僅かに聞こえる旋律を、弥次郎は聞いていた。
「雨も、風も、陽の光も」
旋律に符を付けるように弥次郎が言う。
「何かの役に立ちまする」
さらさらと、雨がその後を継ぐ。
「私たちは、何の役に立てましょうや」
ちくり、と、小さな棘が寂啓の心に刺さった。それは問いかけではない。弥次郎はその答えを既に自らの内に持っている。
心に刺さった棘が、熱い痛みを生む。その痛みに任せて声を荒げたくなる。その衝動に寂啓は耐えた。それは、その棘が、それと同じもの、あるいは、もっと大きく鋭い棘を、弥次郎、そして、弥三郎も持っていると思われたからだ。
「自分を、要らぬものと思われるか」
寂啓は努めて静かにそう言った。
「要らぬものであるから、生かされたのやもと、思うことがありまする」
「生きていること、そのものが、不要の者の証とでも?」
その問いかけに弥次郎は答えなかった。
否、答えられなかったのだ。薄々そう思ってはいても、それを現実とは捉えたくはない。そうでなければいいと思う、一縷の望み。
人に劣る身体を持って生まれ、未だ生かされていることの意味。
それをずっと、問い続けている。
何処かへ。
何処かへ。
「弥次郎、」
「そんなことはねぇです!」
寂啓が紡ごうとした言葉は、巌の声で掻き消された。
巌は雨に濡れた体で濡れ縁からどすどすと足音高く中に入ってきた。そして、弥次郎と弥三郎の手を取った。
「坊ちゃんたちが、おれと吾郎を見つけてくれたのですよ?おれには、御坊様も、坊ちゃんたちも、同じくらい大事な人です」
「でも、」
「おれは、ここが好きです。ここは、御坊様と、坊ちゃんたちと、吾郎がいるから好きなんでさ。どれが欠けても、ここは、おれの好きな場所にはならないんで」
巌がそう言うと、奥で寝ていた吾郎が、目を覚ました。
眠い目を擦り擦り歩いてくると、弥次郎と弥三郎の間に座る。そうしてにこにこと機嫌よく笑って見せた。
「ほーら、吾郎だって坊ちゃま方が好きだって言ってまさぁ。おれは知ってますよ。坊ちゃま方は頭が良いでしょ。御坊様が褒めていらっしゃるのを何度も聞いてまさぁ。それを、おれや吾郎にも教えてくれる。おれの方がちょーっとばかし、吾郎より覚えが悪いかもしれねぇけんど」
そう言って巌はバツが悪そうに笑った。
「でも、教えてくれるのはすっごく有難いと思ってまさぁ」
「役に、立てているか」
弥次郎が言うと、吾郎が弥次郎に抱き着いた。深く、深く、その存在を肯定するように。
弥次郎の目から、はらはらと涙が零れて落ちた。それを心配そうに弥三郎が拭う。その方に、吾郎が手を置いた。その、無邪気な笑顔に、弥三郎の目からも涙が零れた。その涙はやがて、巌にもうつってしまった。
「やれ、我が寺の子供らには、天の涙がうつってしまったようじゃ」
そう言って寂啓は自分の目にも、それがうつらぬように天を見上げた。
雨は、いつの間にか止んでいた。そして、隠れていた陽が顔を見せると、空には大きな虹がかかっていた。
「おう、綺麗な虹だぁ」
巌が拳で涙を拭きながら虹を見た。
「虹は、特に我らに何をしてくれるわけではない。けれども、その美しさに人は希望を見つける。何かの役に立つということは、その者の在り方次第で変わるもの。そして、何の役割も無く、そこに存在するものは何一つない」
寂啓は静かにそう言った。
「出家することが、其方らの選んだ在り方であるというならば、そう在るようにしよう。だが、それが世を捨てるということであるならば、承諾は出来かねる」
寂啓の言葉は厳しくも聞こえた。
けれどもそこには祈りが込められているのが分かる。
生きろ、と。
それは、彼らに未来を託して去った者達が、彼らに託した想いと同じ。
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