第9話
月の明るい夜であった。
寂啓は一人、その月を見上げていた。
案じていた双子も、他は問題なくすくすくと育っている。周りの助力もあり、最近は難しい書物も理解できるようになったという。戦そのもので兄の支えにはなれずとも、良き相談相手にはなりそうだと期待されていた。
これからのお家は、この四名の男子が守っていくことになるだろう。植親の苦悩も少しは減るのではないだろうかと思うのと、気持ちが楽になった。寂啓は大きく一つ息を吐いた。顔が自然に緩む。穏やかで、小さな幸いを感じていた。
そんな時、ふいにばさりと何かが落ちる音がした。部屋の中を見回すと、掛け軸が落ちていた。
それは書が好きだった植親の先代が書いたものだった。拾ってあちこち確認してみても、どこも壊れていない。落ちるようなことはないはずだった。不思議に思いつつ、寂啓はそれをもとの場所へかけた。やはりちゃんとかかる。そして、もう一度その書を眺めてみた。流れるような美しい書体が心に沁みる。
と、ふっと視界が暗くなった。見ると、いつのまにか黒い雲が月を隠してしまっていた。雲は徐々にその数を増やしている。先のような空はもう拝めそうになかった。
「さても、残念な」
月見が終わってしまったことに軽くため息を吐きながら、寂啓は寝間へと足を向けた。
そのころ、主家では謀略による謀反騒動が起きていることなど知らぬまま。
そのために、友とその家族が散り散りになったことも、知らぬまま。
その時、この二人が何をどう思い、どうしていたのかまでは、寂啓は知らない。知らずにいたことを、その場にいられなかったことを今も悔やむ。
だが、寂啓は、少なくともそれまでの二人が、いつも寄り添っていたことを知っている。二人は、お互いの不自由な部分を補い合い、懸命に生きていた。世界の彩を、弟が兄に伝え、世界に満ちる歌を、兄が弟に教えていた。
そして、それを助け、導いたのは彼らの周りの者達だ。父母に守られ、兄に愛され、弟に慕われて、彼らは、漢としての武勇を戦場では上げられなくても、静かに生きていけるはずだった。その夢は潰えてしまったけれど。
(まぁ、静かには生きられよう。その事には、尽力しよう。せめても……)
寂啓は心の中で思った。自分に出来る事はそれだけだ。
寂啓とて、悔しくないわけでは無い。彼らの父母を思えば、悔しさではらわたが煮えくり返る。彼の死が、謀略であることを知りつつ、何もできないのは歯痒いが、下手に動けば、その血を受け継ぐ子らも危うくなる。それは父母らの本意とするところではない。寂啓の知る彼等ならば、自らの汚名を雪ぐことよりも、子らを生き延びさせることに尽力してほしいと思うはずだ。
たとえそれが、寂啓自身の本意を満たすものではないとしても、果たさなければならないことがある。そのために耐えねばならない時があることを、老齢の寂啓は痛いほどわかっていた。
人知れず唇を噛む。そこに血の味が広がった。臥薪嘗胆。そうも思うが、その想いは果されまい。それでもなお、せめても子らが生き延びれば、父母らの願いを叶えることが出来れば、それも本懐と言えるのかもしれない。
老齢に於いて、分かることも増えたが、さりとて体は老いていくばかり。子らを引き取ったとて、いつまで自分が養いきれるかもわからない。
あの事件で失ったものが、今更になって大きくのしかかっていた。
あるいはそうして、自分たちが自滅していくのを敵方は望んでいるのかもしれない。仏の在る寺を、自ら破壊するのは躊躇われたか、自滅させれば自分らに責はないと思えるのか。
それはそれで、敵方の思惑通りになってしまう。それは避けたかった。それを叶える全ては、自分の年老いて細くなった方にかかっている。
正直重い。
それでも、自分以外には背負えない。
そんな荷物を背負ってしまった時、人は何を考えるのか。
「……する」
想いを巡らせていた寂啓の耳に、蚊の鳴くような声が聞こえた。寂啓はびくりと足を止め、振り向いた。声がする、ということは、弥次郎のはずだ。寂啓は供を連れていない。罪人とされる植親の遺児を引き取ると決めた時点で、寺に在った他の僧侶は他所の寺へと移した。
本当に、自分一人で全てを背負うと決めたのだ。そう。思えばあの時からもう、自分は全てを決めていた。
「何か、申されましたか?」
寂啓は歩を戻し、腰を屈めて弥次郎に話しかけた。弥次郎は立ち止まり、見えぬ目をあちこちに向けている。それを真似るように弥三郎も目を走らせた。
弥次郎は、そうしている間にも口を開いたり閉じたりを繰り返した。何かを言おうか言うまいか迷っているのだ。
あの事件以来、双子は人を信頼するということが出来なくなっている。一番大切な人達を、急に失い、何も分からないままどこかも分からな場所に幽閉されていたのだ。無理もない。
それでも、弥次郎はごくり、と、一度唾を飲みこんでから、小さく小さく言葉を発した。
「赤子の、声が、聞こえまする」
一言一言を絞り出すように。
「何」
寂啓が耳を澄ましても、風の音しか聞こえない。しかし、弥次郎は目が見えない分だけ、耳が利く。弥次郎の言葉の方が信頼できた。そして、それが本当だとしたら、これから冬になるという寒空の日、看過できるわけもなかった。
「弥三郎、そちらの方を探して」
弥次郎がゆっくりと唇を動かした。弥三郎は人の唇を読むことが出来た。弥三郎は弥次郎の手を取って頬にあて、頷く。そして一時だけ手を離すと、弥次郎の指した方へと歩いて行った。
そこには、まだ葉を残す草むらがあった。そのほとんどは枯れていたが笹が僅かに残り、草と絡んでこんもりとした形を保っていた。弥三郎がそっと手を伸ばすと、
「ひゃああ」
おかしな声が上がった。弥三郎は声では驚かなかったが、同時にがさがさと動き出した草むらに驚いて弥次郎の元へと逃げ帰った。慌てて取られた自分の手の感触に弥次郎も何事かが起こったことを知る。身を寄せる二人の前に寂啓が立ちはだかった。
弥次郎はその影を変化する明暗と音で知り、弥三郎はそれを視界で捉えた。方法は違っても、二人は同じ思いを抱いた。寂啓が、自分たちにとって最後に残された守り手であるということだ。
寂啓の存在は二人とも知っていた。父の親しい友人であり、お家の菩提寺の住職であるということ。時折屋形を訪れていたのでその姿も見知っている。
そして、彼が来たことによって牢から出ることが出来たということも。
それでも、彼等には起きた事件の衝撃が大きく、そうと分かっていても緊張を解くことが出来ずにいた。
自分達から大切な家族を奪ったのは、誰かの讒言だ。人よりも少ない感覚で世界を生きている二人には、同じように誰かに騙されない自信はなかった。身を護るために、誰も信じずにいるしかなかったのだ。
それでも、そういう中にあっても、寂啓の背中は、二人の心に届いた。自分たちを護るために見せた背中。それは、父のものであり、兄のものだ。
二人はどちらからともなく、そして、無意識にその背中に手を伸べた。それが届く前に寂啓はくるりと振り向いた。
「お二人とも、ここでお待ちくだされ。見て参ります故」
ことさらにゆっくりと、大きく口を動かしてそう言う。それは、弥次郎、弥三郎の言葉の交わし方を見ていて覚え、使っているのだ。
その労力は全て、二人のためだけに使われている。二人の眼がしらに、熱く昇ってくるものがあった。
寂啓は柔和に微笑み、伸ばされたまま止まっている二人の手を取って、優しく握った。
すると、つられたように二人も笑った。それを確かめて、寂啓は手を離し、件の声の方へと向かった。
枯草を掻き分けたその先は少し下がった土手のようになっていた。そして、そこには背中を丸めた大きな男が居た。髪の毛はぼさぼさで着物もボロボロだった。
赤子でなければ敵かと、緊張しつつ、寂啓は口を開いた。
「おぬし……」
静かに言ったつもりであったが、男は飛び上がらんばかりに驚いて、寂啓を振り向きながら立ち上がった。その胸には一人の赤子が抱かれていた。男の服と負けず劣らずのぼろきれのようなものに包まれて、力無く泣いている。それでも、生きている。そのことに、少なからずほっとした。
赤子が生きていた。それを、弥次郎の耳によって知ることが出来た。見つけることができたのなら、助けることもできるだろう。
「おぬしの子か?」
寂啓は訪ねた。赤子が生まれたものの妻に先立たれてこの男一人でどうすることも出来ずに途方にくれてでもいるのかと思ったのだ。すると、男は一度、大きく目を見開いた後、激しく首を横に振った。
「攫ってきたのか?」
寂啓が首を傾げつつそう言うと、男は今度は右手を思い切り左右に振った。
「めめめ、滅相も無ぇです」
「では、何故、」
寂啓が静かにそう尋ねる。自分の子でもなく、攫ってきたのでもなく、どうしてこんなところでこんな男が赤子を抱いているのか、さっぱり分からなかった。
すると、男は肩を落とし、しょぼくれた様子でぽつぽつと言った。
「……最初っからここにいたんでさぁ。泣いてて、寒いし、放っといたら死んじまうって思って……」
「抱き上げたわけか」
「へぇ。乳はやれねぇけど、温みならやれるです」
そう言って男は力なく笑った。そして、さも愛しそうに子供を撫でると、男は寂啓に赤子を差し出した。
「御坊様。どうか、この子を助けてくだせぇ。おれも、捨てられっ子だったから、この子の気持ち、分る……」
男はそう言って、大きな涙を零した。
「生きてぇはずだ。あったかい所に居たいはずだ。御坊様のお寺に入れてやって下せぇ。凍えないように、腹一杯、乳、飲めるようにしてくだせぇ。おれはそれだけでいい。この子と離れるのは寂しいけど、この子が生きてくれるなら、おれは……」
「やれ、そう言われてもな。寺には女子などおらぬ故」
「住職様」
ずっと黙っていた弥次郎が声を頼りに歩き出した。弥三郎が一緒に歩き出す。二人はそのまま同時に地面に座り込み、深く頭を下げた。
「私からもお願いします。この身をお預けする居候のみでこのようなこと、言えたものではありませぬが、私どもの食事を減らしてもかまいませんので、どうか、どうか……」
それを見ていた大男は、赤子を捧げ持つようにして同じように頭を下げた。
弥次郎も、弥三郎も、今となっては主家に捨てられたも同然。そして、先ほど大男が言った言葉は、彼らの父母が彼らに対して持っている想い、そのもののようだった。
大男も、弥次郎も、弥三郎も、赤子に並みならぬ縁を感じているように思えた。
寂啓は静かにゆっくりと息を吐いた。その息は白く染まり、大気に溶けていく。
(これも、仏縁というものなのだろうか)
消えていく息を見ながら、そんなことを思う。
寂啓自身もまた、孤児だった。生まれ育った山間の小さな村は、長引く雨で川に流された。そうして、滅びた村の子だった。
すぐに寺に来たわけでは無い。それがいつの頃からかは覚えていないが、気が付いた時から生きるために盗み、人も傷つけ、殺めた。
そうしているうちに、喧嘩によって受けた傷で足を痛めた。それからはもう、走ることはできない。歩くのがやっとだった。そうなっては悪事も働けない。道端に転がり、死を待つばかりになった時、一人の僧侶に拾われた。
その僧侶も亡くなって久しい。最良の友と思った植親もいない。その時に感じた空虚感はたとえようもない。だが、彼等も、そして、自分の本当の親も、同じ言葉を胸に抱いていたのだろうかと思う。
先にゆくものから、後に残るものへ。
「離れるのは寂しいけれど、あなたが生きていれば、それでいい」
その言葉を届けるために、この大男がここにいたような気すらしてくる。そして、自分達と出会うように、赤子が泣いたような気がする。それらの全ては果たして誰の思惑なのか。
「もとより、捨て置く気なぞない。そのようなこと、仏の道に反する。皆、顔を上げなさい。そのままでは話もできない故」
寂啓は静かにそう言った。そして、ようやく顔を上げ、立ち上がった三人の膝を叩き、土を落としてやった。
「ただし、先ほども申したように、寺には乳をやれるものはおらぬ故」
そう言いながら寂啓は大男へと向き直った。
「乳はお主がもらってくるように。近くの村で、最近赤子が生まれた家が何軒かある。その家の手伝いをして、乳を分けてもらってきなさい。其方の図体ならば、力はあるだろう。それを生かして仕事を見つけてくることだ。何、母親であれば、乳を求めて泣く赤子を無下にはせぬ。何かしらの仕事を与えてくれるだろうよ」
幸い、この秋は豊作で、山にも多くの実りがあった。近辺の村は皆、冬の蓄えをしっかりしているはずだ。そして、冬を迎える支度は今からが佳境。男の力は村にとっても良い助けになるはずだった。
「へええ、なるほど。確かに、おれは腕力には自身がありまさぁ。そうやっておれの腕力を乳に変えるやり方があるんですな」
男は感心したように言った。そして、何かを考えて、ぽん、と、手を打った。
「と、言うことは、もしや、おれも寺に置いて頂けるってことで……」
「仏は人を拒まん。全てに救いの手を差し伸べてくださる」
「ありがてぇ。実はおれもはらぺこなんで」
男はそう言って、腹を撫でた。
「寺に戻れば何かはある。だが、そこから先の自分の食い扶持は、自分で稼いでもらわねばならぬが、良いか?」
寂啓は半ば呆れたようにそう言った。
「へぇ、それはもちろんでさぁ。ついでに、御坊様や子供達の分も稼いできますよ」
そう言って大男は腕を曲げて、ぐっと力を入れた。
その様子に弥三郎が明るい笑顔を見せた。そして、男の方へ駆け寄ると、手を伸ばした。
「ほぅ」
寂啓は正直驚いた。それまで人に心を開こうとしなかった弥三郎が自ら男に手を差し伸べている。男もまたそれをにこにこと笑顔で受け止めていた。そして、身を屈めると弥三郎の前に自分の腕を差し出した。弥三郎は自分の腕も同じような形を取ったがあまりにも男のそれと違うので目を丸くして驚き、はしゃいでいた。
それから、ふっと何かに気付いたように弥次郎に目を向けると、弥次郎の手をそっとその力こぶに触らせた。弥次郎は一瞬、驚いた顔をした。それが何かわかっていないようだった。
「おれの腕ですよ。おれは大人だし、鍛えてあるんで、坊ちゃま達とは違うでしょう?」
殊更にゆっくりと話す男の様子に、寂啓はもう一度、ほぅ、と、声を漏らした。
特に説明はしていなくとも、男は二人がそれぞれ利かない感覚を持っていることを理解し、身の振り方に気を配っているのが分かった。
そして、その腕に触れていた弥次郎もまたゆっくりと笑顔を作った。
それが、全ての証になった。
(やれ、静かには暮らさせてもらえそうにない)
寂啓はそう思いつつ、口元には笑みを浮かべていた。
静かには暮らせそうにはないが、それよりももっと、その大男の存在が助けになるような気がした。単純に、男手があるのは幸いだった。そして、彼は普通の男手よりもかなり力がある。むしろいて欲しいと願うのは寂啓の方だった。
「其方、名は?」
「へぇ、巌といいやす」
大男は双子と赤子を同時にあやしながら言った。
「巌、良い名だ」
「へへ、照れやすね」
そう言って巌は笑った。
その笑顔は屈託なく、素直だった。
全く、良い拾い物だと、寂啓も笑った。
大事なものを失った傷を、誰もが持っている。その傷を知る仲間との出会いが、皆の心に開いた穴を少しずつ、埋めようとしていた。
その出会いは、どこまでも偶然に訪れる。人の意図しない所から、救いの手は差し伸べられる。その根源がどこに在るのか。
それは、誰も知らない。
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