年末

増田朋美

年末

寒い日であった。これが当たり前だと言えるのかもしれないが、とにかく寒い日であった。もっとも、こんな寒い日では、なかなか外に出ることもないかもしれない。外に出ると人間は服を着る。それは、人間の特権のかもしれないが、なかにはそうではない動物もいるのだ。例えばこんなふうに。

その日、製鉄所では杉ちゃんと由紀子が、水穂さんに、もらってきたラ・フランスを食べさせようとしていたが、水穂さんはどうしても食べる事ができずに、咳き込んで吐き出してしまうのであった。吐き出せば同時に赤い液体も、噴出するわけだから、杉ちゃんも由紀子も、嫌な気持ちにさせられるのだった。いくら、もういい加減にしろと言っても効かないのだった。

由紀子が、水穂さんの背中をさすって、吐き出しやすくしてやっていると、玄関先から人の声がした。

「こんにちは。水穂さんはいますか?」

一体誰だろうと、由紀子は思った。

「あの、真島佳代子ですが、水穂さんはいらっしゃいませんか?」

「真島さんにしては、ハリのある声だなあ。」

杉ちゃんは、すぐに言った。

「どなたですか?真島佳代子って。」

由紀子が聞くと、

「去年の夏に、製鉄所を利用していた女性だよ。」

と、杉ちゃんは答えた。

「たしか、精神疾患が悪化して、それで帰ったんじゃないかな?ここでなんとかなる状態ではないからってな。」

「そうですね。確か、足が痛いと盛んに訴えて。」

水穂さんが細い声で言ったので、由紀子は、あまり喋らないでと水穂さんに言った。

「とにかく寒いからなかにはいらせよう。」

と、杉ちゃんは、彼女を製鉄所の中に入らせた。すると、聞こえてきたのは、女性の声だけではなく、犬の鳴き声も聞こえてきたから、由紀子はまた驚いた。

「その節は本当にご迷惑をおかけしました。今年の夏から、ペットを飼い始めまして、真島家には、新たな家族が増えました。その紹介をしたくて、連れてきたんです。真島善作です。」

佳代子さんは、隣りにいた奇妙キテレツな犬を指さした。犬は確かに犬であるのは間違いないが、まったく体に毛が生えていないで、毛糸のセーターを身に着けている。

「ペルービアン・ヘアレス・ドッグの真島善作です。」

佳代子さんが改めて紹介した。大きさは、大型犬で、ラブラドールと同じくらい。体のいろは、紫色をしていて、なんだか気持ち悪い犬でもある。

「はあ。かわいいなあ。毛がないとはめずらしいな。」

杉ちゃんがいうと、

「犬を飼ってみたいとは前々から思っていましたが、犬アレルギーなので、できずにいました。ペットショップに相談したら、毛のないワンちゃんであれば、飼育できるからって、紹介してくれました。今ではペットショップの店員さんに感謝しています。」

佳代子さんはとてもうれしそうに言った。

「そうなんか。犬アレルギーでも犬を飼える時代になったわけね。」

と、杉ちゃんがいうと、

「ええ、病気から回復するには、ペットを飼うと良いと、精神科の先生にも言われました。飼い始めは、足がいたくて、散歩が大変だったのですが、だんだんそれもなくなりました。何よりもバファリンを大量に飲んでしまう癖がなくなったので嬉しいです。」

佳代子さんはそう言った。

「そうなんだ。なんだか、ファシリティドッグみたいだな。ペットというより、佳代子さんの専属のお医者さんみたい。」

杉ちゃんはにこやかに笑った。

「そうですね。単なるペットどころか、佳代子さんの人生を変えてくれた犬ですね。」

水穂さんも、そう言った。

「そうなんです。私、この子のお陰で、いろんなところに行ってみたいと思うようになりました。簡単に痛みが取れるわけじゃないけど、少し痛みが軽減されてきて、旅行も行ってみたいなとか、そんな気持ちが湧いてきて。今思うと、自分がこれだけ必要とされるなんて考えてもいなかったですもの。だって、私、病気になってから、ほんと、ただのお荷物さんになってしまいましたから、そこから解放されたのは、この子のおかげです。だから、ずっと一緒に居たいですよ。」

佳代子さんが穏やかな顔をして、そんなセリフを言うのは確かに信じられないことでもあった。年がら年中痛いの三文字ばかりで、周囲も困り果てていた佳代子さんが、ヘアレスドッグを飼うことで、ここまで前向きになったというのは、とても嬉しいことでもあった。

ちなみに、佳代子さんの職業は、確か洋裁をやっていたという。それがある時期から足が急に痛みだして中止してしまわなければならないという事態になったようだが、この善作くんの洋服を作ることから再出発すれば、また仕事ができるぐらいになるのではないかと思われた。時々、心の病気になる人には、生き方考え方を変えるしか回復の見込みがない人が居る。そういう人は、環境を変えるとか、仕事を変えるとか、そういう表面的な変え方をするだけではなく、同じ仕事を続けることになる人もいる。そして、そういう変わり方をしてくれる人は、より仕事に熱心に取り組むようになる人がほとんどだ。真島佳代子さんはそのいい例だろう。かわいいワンちゃんがそうしてくれたのだから。

「良かったですね。それなら、かわいいワンちゃんと一緒に、再出発してください。真島さんは決して悪い人ではないし、悪いことをした罰で病気になったわけでもありませんから。」

水穂さんは、そう言ってまた咳き込んでしまうのであった。由紀子は、水穂さんの背中を擦ってやりながら、佳代子さんをもう帰ってくれないかなという目つきで見つめた。

「ああ、ごめんなさい。もう長居をしすぎたわね。すぐに帰りますけど、よかったら、私が申し込んだ、犬と触れ合う会に参加してみませんか?そこで、相性のいい動物をそばにつけて貰えば、また水穂さんも変わってくるんじゃないかな?」

佳代子さんは、そう杉ちゃんたちに言った。

「なるほど、目的はそれか。」

杉ちゃんはすぐに言った。

「僕のところに、正輔も輝彦も居るんだけどね。それにたまも居るし。」

「でもその子達は、人間が介助しなければ、動けないでしょ。そうじゃなくて、ペットとしての役目をちゃんと果たせる動物を連れてくるのよ。そのほうが、人間も癒やされると思うわ。だって、壊れたマッサージ機でいくらマッサージをしても、効果ないでしょ。それと一緒だと思うの。」

佳代子さんはそういった。たしかに、彼女の言う通り、壊れたマッサージ機ではマッサージをすることができない。それは確かである。だけど、壊れていないマッサージ機でなければ行けないかという法律はどこにもない。

「うーんそうだなあ。完璧な動物でなければならないってことは無いと思うよ。それに障害のあるペットは、良い思い出になるって言うじゃないか。完璧に健康な動物だけに限定してしまうのは、ちょっとまずいんじゃないかと思うけど?」

「でも、それでは、癒やしとか、そういう目的では飼えないわ。余計に飼い主さんの負担も増えてしまうのでは?」

佳代子さんに言われて、由紀子はそうかも知れないと思ってしまった。確かに、ペットは飼いたいと思う気持ちはあるけれど、歩けないペットでは、人間が余計な手を出すことになってしまう。

「まあそうかも知れないけどさ。でも、捨てるなんてとんでもないし、最後まで一緒に世話をしてやりたいと思うんだよね。それは、いけないことじゃないと思うんだよ。機械と違うから。そういう、佳代子さんみたいな考えは、なんかある意味人種差別してるのと同じようなところがあるぜ。」

杉ちゃんは、縁側で日向ぼっこをしている、二匹のフェレットたちを見た。二匹とも歩けないので、逃げてしまう心配はないから、縁側で日向ぼっこしても全然問題はないのだが、移動させるには、抱っこしなければならないのは明らかであった。

「人間は障害のあるやつがいても、フェレットは歩けなくちゃだめなんてそんなステレオタイプは、変だと思うよ。それなら、障害のあるペットでも平気で飼うよ。」

杉ちゃんは平気で言った。佳代子さんはそんな意味で言ったわけじゃないんだけどなあという顔をしたが、水穂さんが咳き込んでしまったのを見ると、とりあえず、善作と一緒に帰るわと言って帰っていった。

それから数日後。

今日は、なんとなく暖かいなと思っていた年末の日。年末であったので、由紀子は平日でも製鉄所に出かけた。仕事さえなければ、由紀子は製鉄所へ行くことを決めていた。ちなみに、製鉄所の利用者数は、年末年始になると増加に転ずる。なぜかというと、年末の準備で家族が忙しく、精神障害者をあまりかまってやれないとか、親戚づきあいの関係で家に入れて行くのが恥ずかしいなどの理由によるものである。時には、年始休みを頂きたいので、精神障害者を預かってくれと依頼されることもある。ぼんや正月などの伝統行事は、普通の人であれば、とても楽しいものになるけれど、障害者の場合は逆になることを、頭の片隅に入れてほしいものであった。

そういうわけで、由紀子が行かなくても、製鉄所では利用者が増えて、水穂さんの看病も利用者がやってくれるという現状があったが、由紀子は、製鉄所に行ってしまうのであった。製鉄所に到着すると、利用者が、由紀子を出迎えた。由紀子が、水穂さんはどうしてるのかと聞くと、寝ているとしか帰ってこなかった。由紀子はそれだけ聞いて、四畳半に直行した。

四畳半に入ってみると、やっぱり、畳が吐いたもので汚れていた。こうなってしまうのであれば、由紀子は、人が増えてもあまり意味がないと思った。水穂さんは薬を飲んだのか静かに眠っている。とりあえず汚れた畳は張り替えてもらわなければならないが、多分畳屋さんも今日は正月休みだ。それでは意味がない。

その近くでは、小さなフェレット二匹が、心配そうな顔をして水穂さんを見つめていた。由紀子はこの二匹を眺めて、なんとも嫌な気持ちというか、どうしてここに居るんだというか、そんな不思議な感情が湧いてしまった。それはいけないことかもしれないけれど、たしかに、この子達ではなくて、真島佳代子さんが連れてきてくれた、欠損のないペットであれば、また違った事をしてくれるかもしれない。

「こんにちは。今日は利用者さんが増えたって言うものだから、今日は皆さんに可愛いワンちゃんをお連れしました。」

そう言いながら、真島佳代子さんがやってきた。ぼんや正月に塞ぎ込んでしまう人のために、またこういう人の活動も活発になるのである。

「皆さんワンちゃんたちと、触れ合ってくださいね。ただし、追いかけ回したりはしないでね。」

佳代子さんは、先日連れてきた善作くんだけでなく、他に二匹犬を連れて製鉄所にやってきたのだった。ラブラドールとゴールデンであった。二匹とも頭が良さそうで、聡明な雰囲気がある犬たちであった。その日は製鉄所の利用者は6人に増えていたが、佳代子さんが、三匹の犬を中庭に放すと、すぐに可愛い可愛いと言って、犬を撫でたり、餌をあげたりし始めた。それを、二匹のフェレットたちは、自分にはできないんだなと言う顔で眺めていた。中には、佳代子さんに、犬を使ってセラピーするには、どんな資格が必要なのかとか、そういう経緯を聞きたがる人も居る。そういうわけで、今は人間だけではなくて犬も仕事をする時代なんだと由紀子はそう感じたのであった。

佳代子さんが、犬を連れてきて、どれくらい時間が経ったかなと由紀子が考えていると、突然キュイーン!という金切り声がして、輝彦くんが歩けない前足と後ろ足をバタバタさせて、痙攣を起こしてしまった。その声も小さいので、他の利用者たちは気が付かなかったようであるが、水穂さんが、それに気がついて目を覚ましてくれて、すぐに輝彦くんをだきあげて、はいはいと声をかけ始めた。小さな正輔くんは、お兄さんらしく我慢しているようであったが、水穂さんは二匹を抱き上げて、庭を眺められるようにしてあげたりして、二匹を慰めてあげているのであった。幸い二匹は犬に比べるととても小さいので、簡単に抱っこしてあげられるのは強みだった。

由紀子は水穂さんに、正輔たちの世話をするのは辞めて、ゆっくり寝てほしいと思ったのであるが、水穂さんと、目があってしまうと、それが言えなくなってしまった。水穂さんは自分がやらなければ誰がやるんだという顔で、由紀子を見ていたのであった。二匹のフェレットたちは、水穂さんに抱っこしてもらえて本当に幸せそうだった。そうしてやらなければだめなのだと言うことが由紀子にもよくわかったので、由紀子はそれ以上何も言えなかった。

「動物が悪いわけではありません。動物を使っている人間が悪いのです。」

水穂さんは細い声で言った。中庭では、ワンちゃんと、6人の利用者たちが、まだ楽しそうにおしゃべりをつづけていたのであるが、由紀子は、そうする人たちも必要なんだろうなと思いながらも、どこかで違うものを見ているような気がした。





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年末 増田朋美 @masubuchi4996

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