第3話 故郷に帰って(最終話)


--- イントロダクション -------------------------------------------------------------------------------


 あの日、私は海を眺めていた。

 まだ年が明けたばかりだったが、非常に暖かな日だった。

 青く広大な海は、

 太陽の光を浴びて実に穏やかに揺らめいていた。


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 そしてあの日、

 私は数年ぶりに内側の世界に戻った。

 懐かしい幻想が私を包んだ。


 私にとって内側の世界の幻想は、

 外側のそれよりも心地良くて、

 それと同時に不快なものでもあった。


 外側の世界では、

 身体の外部から幻想に包まれていく感覚があったが、

 内側の世界では、

 身体の内部から侵食されていく感覚があった。


 羽を休めてしまえば二度と飛べなくなりそうで、

 落ち着かなかった。


 そんな私が、久しぶりに海を眺めた。

 たまたま海岸近くに用事があり、

 散歩がてらに海を見ようと思った次第である。


 昔から、私は海に特別な関心がなかった。

 綺麗だなと思うことはあっても、

 大きく心を動かされることがなければ、

 また見に行きたいなと思うこともなかった。


 それはいまでも同じで、

 誰かに「海が好き」という話をされると、

 海のどこを好きになれたのか気になった。



 天気は快晴で、

 程よく風があってそれなりに快適だった。

 海は、以前と変わらず壮大で穏やかで、

 そして深みがあった。


 私は、空を見上げた。

 綺麗な水色に染まった空には、

 まるで油彩画のように、

 影と光の鮮明な積乱雲が浮かんでいた。


 そして、再び海に目を向けた。

 空と相対する海は、

 より濃厚な群青色の波を漂わせていた。


 辺りは静かで、

 波が堤防のコンクリートを静かに打っていた。


 その景色を見て、

 私は「神秘的な何かを感じ取った」なんてことはない。


 それどころか、

 むしろ、私はその裏側にある

 「巨大な虚無」を感じていた。


 大きな自然を前にすると、私は時折、

 この「巨大な虚無」を感じることがあった。


 「巨大な虚無」のことを、

 私はつい最近までは非常に恐ろしく思っていたが、

 いまはそういったこともなくなっている。


 それは、私が私の内側に、

 虚無を認めたことが原因なのかもしれない。

 そして、この「虚無」は、

 私にとって最も現実に近いものであった。




 そのようなことを考えていると、

 付近から物音が聞こえた。


 音の鳴った方から、

 凧を抱えた4.5歳ほどの小さな少年が現れた。


 その背後からは、父親らしき男性と、

 少年よりもさらに小さな赤子を抱いた母親らしき女性がついてきた。


 日の光が、彼らの柔和な微笑みを照らしている。

 泣き喚く赤児を、

 女性が優しくあやす。

 少年は意味もなく笑い、

 男性は彼の頭を撫でる。

 少年と男性が顔を近づけ、何かを話し込む。

 そして、少年と男性が凧を持って走り出す。


 その瞬間、緩やかな風が吹く。

 凧は風に乗って、地上の遙か上空を舞う。

 少年と男性の笑い声が、静寂だった空間を満たす。

 赤児の背中をさすっていた女性が、その手を止める。

 彼女は、手で光を遮りながら凧の舞う天空を眺める。


 私は、彼らの紡ぎ出した一連の光景に心を奪われた。

 儚くも、嘘偽りのない希望が、確かにそこに在った。




--- エピローグ -------------------------------------------------------------------------------------------


 あの時見た「希望」が、

 現実なのか幻想なのかは分からない。

 私にとって「希望」は虚構であり、

 それは当然、幻想の一部分である。

 

 しかし、あの瞬間、

 私が「希望」を無条件に肯定していたことは、

 紛れもない事実である。

 

 どちらにせよ、

 私があの光景を忘れることは、生涯ないだろう。


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あの日、海岸にて a @mynameisa

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