第10話 神
無力を呪う慟哭――ガキリッと歯を噛み締め、万力を込めた四肢を脈動が駆ける。
死の世界にあって剣の周囲だけが熱を帯びる。
終焉の世界は全てがスローに見えた。
見えるはずのない矢が見える。
望の周りを吹き荒れる風の軌跡が見える。
熱は大気を伝わり、溜まり、一瞬で膨大な熱量を生んだ。
『ようやくか』
誰かの声がした。
次の瞬間、世界が光に覆われ、後に凄まじい轟音が鳴り響いた。
「ッ⁉」
咄嗟に『梅花』を前方にかざした望であったが、衝撃は殺しきれず、その身体は後方に押しやられた。
五メートルほど後退させられた望は、そこで片膝を着いた。
「はぁはぁはぁ――今のは?」
衝撃で震える腕を庇いながら、顔を上げ茫然と剣を見つめる。
そして、それは剣も同じであった。
死に迫られたと同時に、世界が止まった。
走馬灯。
死ぬ前に、これまでの人生を一瞬で振り返る現象。
この時剣が見たのは、【梅駆流】を習い始めてから現在までであった。
道元にしごかれ、望と競い合った日々――?
違和感。
望は剣と一緒に『梅駆流』を習っていた? ならば何故、竹刀を手放した?
突如思い出した記憶の通りであれば、剣と望の実力は互角。
それなのに何故?
あるところから生じる記憶の僅かな齟齬。
加速した思考が、脳を揺さぶり記憶の真相――閉じられた扉をこじ開ける。
それと同時に響いた声。
幼い少女の様な声音だが、老齢を感じさせる。
その後は正しく一瞬であった。
光
痺れ
動き
衝撃
轟音
一連の現象が瞬きの間におき、
見ると望の身を覆っていた風の鎧が剥ぎ取られていた。
二人の間に訪れた―――間。
『これでようやく対等じゃな』
そして二人と一柱の空間に、もう一つの存在が現れた。
背丈は然程高くない。剣の肩ほどまで。甚平に近い黒と赤の和装だが上下とも丈足らずに着崩しており、その華奢な腰には不釣り合いなほど太い注連縄が巻かれている。長髪の白髪をたなびかせ威風堂々と在るその少女はいつの間にか剣の背後に立っていた。
「お前は――?」
『何じゃ坊主、その腑抜けた面は? 限界などと戯言を抜かすなよ。これからが本番じゃ』
突如現れた少女は、外見に似合わない口調で初めて会う剣に馴れ馴れしく話しかけてきた。
「本番ってどういう事だよ?」
『分かっている事をわざわざ口にするでない。それは弱者の専売特許じゃ。強者であれば無言で全て薙ぎ払え。このような風などそよ風にも等しいわッ』
厚顔無恥。その言葉は剣に語られてようでいて、その鋭い視線は膝をつく望にも向けられていた。
「ッ‼」
そして、その発言を聞き流すには望の
『我ながらいい性格をしておる』
望の後ろに在った
『望、いけるな?』
「――ハイ!」
再び立ち上がった望の周囲に風が舞う。
それは次第に強く激しく渦を巻きく。
神の姿が淡く光り、薄れる。同時に望の身体が光に包まれていく。
神が完全に消えた後には、望ただ一人。しかし、所々千切れ飛んでいた服は元通りに、『梅花』を構えるその姿はまさに人神。
『どうやら
その様子を見て、悪戯をする前の子供のよう少女が剣に話しかける。
「分かってらッ」
剣も乱暴に『猫丸』を構えた。
しかし、相対しているだけで分かる。アレには勝てない。今まで色んな人と戦
剣の師匠、道元ですら敵わないだろう。
「ゴクリ」
だが、アレが望である以上引くことは出来ない。
偽りと真実。この記憶の混乱は恐らく望が原因だ。その証拠に望の大技を受けたタイミングでしか、記憶の混在は起きていない。
ならば確かめなければならない。この戦いに勝って。●●とは誰なのか。剣と望の本来の関係とは。
『猫丸』を握る手に力が籠る。
『わはは。お主は強いが阿呆じゃのう。まさかアレに生身で挑む気か?』
そんな剣を見て、背後に立つ少女がゲラゲラ笑いだした。
「どういうことだ?」
剣が頼れるのは神刀『猫丸』と【梅駆流】のみ。コレが今の剣の全力だ。
『だから阿呆と言っておるのじゃ。よいか? これは【神ノ遊戯】じゃ。ならば、お主が使える力がもう一つあるじゃろう』
そう言って、望に視線を向ける。
今の望の姿は
今や纏う風は、更に一か所に収束しつつ『キュゥゥン』と甲高い音を響かせている。
剣は背後の少女を見やる。
とても神には見えないが、
「行けるのか?」
『おうともさッ』
剣の確認の呟きに、嬉しそうに歯をむく少女。
それと同時に、少女の背後に浮かぶ八つの太鼓が打ち鳴らされ始めた。
ドン ドン ドン
次第に大きく荒く――音は大気を震わせる。
『はははッ 祭りじゃ祭りじゃ。騒げ騒げ騒げ!』
少女の白髪が何かに引っ張られるように四方に広がっていく。
「これは――」
同時に剣はかつてない感覚に捕らわれた。
決して追いつくことが出来なかった幻影に追いつける感覚。
――――いける。
確信の籠った瞳で望を見やった。
「準備は、いいね」
それを見て、望も淡く微笑んだ。
轟音と高音が響き合う。
視線が交差する――と同時に二人が動いた。
「射ッ」
望が放つのは、凶悪な暴風を収束させ出来上がった風矢。竜巻のエネルギーを一本の矢に押し込めたまさに天災級矢。それが『梅花流 音越ノ矢』の速度で放たれる。
対する剣は、放電していた。
周囲の大気を、身体を紫電が巡り人の限界を超える領域へと強制的に身体能力が底上げされる。放つのは【梅駆流 三ノ段 居合音断】。
「うおおおぉぉおぉぉおお!」
まさに一瞬。瞬きすら置き去りにした刹那の時。
世界を置き去りにして、刀と矢が交差する。
「……やっぱりダメか」
望が呟いた。
望の放った風矢は、剣に到達する一瞬早く薙ぎ払われた。
そして、その風は人知を凌駕する剣速に巻き込まれ望に牙を剥いた。
咄嗟に掲げた『梅花』は中ほどから折れていた。
勝敗は決した。
望が膝から崩れ落ちる。
「……終わりだ、望」
地に膝を着いた望を、剣が見下ろす。
その姿に先程までの神々しさはなく、傷付いた敗者の姿であった。
「もう終わりにしよう。武器なんか持たず、お前はただ好きな神社を継げばいい。邪魔するヤツは俺が倒してやる」
そこには
剣は思い出した。『梅駆流』を習い始めたのは望たちを守る力が欲しかったから。
望の姿に剣は【神ノ遊戯】への参加を決意する。
何が遊戯だッ。
何が神事だッ。
何が神だッ。
望がこうまでしなければならないものなど、間違っている。
相手が神だろうが、叩き切って謝らせてやる。
まごう事なき怒りを瞳に宿し、剣はユラリと猫丸を掲げた。
「まずはお前からだ」
それだけで人が殺せそうな怒気の籠った声と瞳で、望の前に立ちふさがる神とやらを見下ろした。『梅花』が折られたとで、その身を保てなくなったのか威厳のあった存在感は薄れ、その姿は影のように揺らいでいた。
『……』
対する神――菅原道真は言葉を紡がない。
ただ、まっすぐに剣を見上げる。
「――死ね」
『
「――――⁉」
その瞬間。
これまで感じていた望の殺気や、剣が今正に放っている殺気ですらそよ風に感じるほどの寒気が剣の――いや、その場の全てもモノに駆け巡った。
目の前の神が何かしたのかと思ったが、違うようだ。
先程まで無感動に剣を見上げていた菅原道真も、その瞳に驚愕を宿していた。
そして、ソレに気付いた時にはもう遅かった。
夜闇が蠢いていた。
申し訳程度の街灯の灯で辛うじて照らされていた空間に、闇が忍び寄る。
夜闇が更に深くなる。
オッォオォ オォォォォ オォオォオォ オオォォ ォォオォオオ
地の底から響き渡る声に剣は理解した。
殺気ではない。
どうしようもない。個として、人としての生存本能が叫んでいる。
根源的嫌悪感。
相手の存在を完全に否定する感情が身体を駆け巡り、肌が泡立ち、全身の毛が逆立つ。
「……何だ、コレは」
茫然と呟く剣。
その瞳に映ったのは、辛うじて残った光源を覆い隠すように忍び寄った黎(くろい)何か。
ソレは辛うじて人の形をしていた。
胴の様なモノから手足の様なモノが伸び、頭の様なモノが乗っている。
だが、それは人では在りえなかった。
手足と思しきものは以上に長く、辛うじて二足歩行しているが、手が地面に着きそうだ。
頭と思しきものは、ただの黎球体で、そこに三つの大きな穴が開いていた。
オオォォオォォ
オォォォォオオォ
オォォォォオオ
どうやらこの声はその穴の一つから響いている様だ。
嫌悪感に鳥肌が立つが、視線が逸らせない。
逸らせばそこで自分の生命が終わる、そんな強迫観念にも近い感情が心を否定し、身体を固定する。
『何故だ? どの神だ《誰だ》?――汚らわしい』
神にさえ恐れをなさなかった剣が気圧される中、菅原道真が戸惑に続いて、激しい怒りを込めた呟きを漏らした。
汚らわしい?
そうだ。確かにアレは、汚れている。この世に在ってはならない。
神の声に
膝を着く望を背に庇う。
『何の真似だ?』
その動作に菅原道真が疑問の呟きを漏らした。
「別に。アンタはおまけだ。俺は望を守る」
背を向けたまま、剣は己の意志を口にした。
そして、その声に呼応するように黎が『ズズッ』と前進を始めた。
夜闇より更に黎。まるでその空間が死んでなくなったかのような光景であった。
「――っ」
再び震えそうになる四肢を鼓舞し、一番近い正面の街灯下にいる黎に照準を合わせる。
動きは遅い。
『猫丸』を振るえば負ける事はない――恐れるな。
恐れるな……?
恐れている? 戦いに? 剣(俺)が?
その事実に気付いた時、剣はしかし、どうもに嗤った。
小学校の時の剣道の試合でも、上級生や不良相手の喧嘩でも、神との戦いでさえ恐怖しなかった。
そんな剣が産まれて初めて恐怖していた。
それは惰性の日々で感じていた退屈を、確かに忘れさせてくれていた。
「俺に生きている喜びを教えてくれッ」
恐れる心を塗り潰すように、自分に発破をかける。同時に剣が神速の一撃を放つ――。
オオオオオオオオオオオ!
歓喜か、絶叫か。
黎が剣の動きに呼応して叫ぶ。
瞬き程度の時間。
『猫丸』を振り抜く剣は、その一瞬、確かに黎と目が合った。
そして、瞳のないその穴で確かに黎は嗤った。
「――⁉」
もう止まれない。『猫丸』を振り切る。手ごたえは――ない。しかし、そんな事は些事とばかりに、身体に走る寒気に従い、後ろを振り返る。
視界に飛び込んで来たのは、黎く抜け落ちた世界。望の周囲の世界が死んでいた。
闇が忍び寄る。
剣は己の浅慮を悔いた。
光に目が眩み、光源の下の形ある黎にしか注意が向かなかった。周囲の闇が蠢いていると感じていたのに。
踵を返す。
望が緩慢な動作で顔を上げる。
言葉にならない声をあげて、剣が駆ける。
ただ、茫然と剣を見つめる望。
黎の手が迫る。
―――――間に合わない。
瞬きの半分。一瞬にも満たない。しかし、確かに剣は間に合わない事を悟った。
「―――――望ぃぃぃ!」
空しい絶叫が闇に吸い込まれていく。
『喝ッ』
瞬間、青稲妻が大気を駆けた。
ォォオォオォ
同時に望を覆おうとしていた空間が、色を取り戻す。
「——――ラッ」
絶望を塗り替えた光源に、瞬時に立ち直り青稲妻が切り裂いた空間を広げる剣。
神速で振り続けられる『猫丸』が青稲妻の取りこぼした黎を狩っていく。
『ぐっ』
時間して数秒。十メートル弱、公園内に立っている黎はいなくなった。
「大丈夫か望ッ⁉」
息を切らして駆け寄った剣が見たのは、厚顔不遜であった菅原道真が地に膝を着き苦しんでいた。すでに限界だったのだろう。その横で望が焦った、申し訳なさそうに座り込んでいる。
「ど、どうしよう剣」
オロオロと彷徨う視線に腕。
「……お前」
しかし、その問いには答えず、苦しむ菅原道真に剣は声を戸惑いの声を漏らした。
『何だ? 儂が望を救ったのが以外か?』
表情こそ苦悶に歪んでいるが、その声は変わらず不遜であった。
正直に言えば意外であった。剣との戦いのさ中、菅原道真は望の事を顧みていなかった。
発言や態度に、それが現れていた。
今こうして望を危機から救い苦しんでいる光景が、先程までの態度とかみ合わない。
何がしたいのか分からない。
『神を信じれぬその身では理解出来ようはずもない』
剣の疑問を正しく読み取った上で、諦めの籠った声を漏らした。
「……どういう意味だ」
意味は分からないが、バカにされた事だけは伝わった。不機嫌を隠さず、剣は菅原道真を睨みつけた。
『意味など知れている――そして、まだ状況は改善しておらぬぞ』
「――何⁉」
神の曖昧な言葉に、しかし今度は正しくその意味を理解した剣は意識を周囲に広げた。
ォォォ ォォォォ
ォォォォ ォォォォォォ ォォォォ
ォォォォ ォォォォ ォォォ
か細い。しかし、周辺一帯そこかしこから聞こえた。
「まだ、生きてるってのか?」
全て切り捨てたハズだ。
ゾゾゾ
しかし、闇は確かに蠢いていた。
神の力を乗せた望の矢でさえ切り裂いた『猫丸』。それで切っても倒せない。
驚愕の事実を目の前に、『猫丸』を握る手が汗で湿る。慌てて取り落とさないよう握りを強くした。
『……』
「ひっ」
声に視線をやる。
菅原道真は苦悶に表情を歪め、望は眼前の光景に小さく悲鳴をあげた。
望はもちろんのこと、先程助けられた菅原道真の力ももはや当てには出来ない。
「……やってやるよ」
だが、そんな事は関係ない。
「切れるんなら、勝てる」
守るべきものがいるのだ。
「一撃でダメなら、二撃。それでもだめなら四撃。それでもダメなら十撃――粉微塵になって生きている事を後悔するまで切り刻んでやるッ」
『わはははッ いいなっいいなっ! やはりお主は最高じゃ』
剣が獰猛に吠え、少女が凶悪に笑った。
勝算がある訳ではない。
ただ、守るために。もやは脅迫な観念に近いその衝動に身を任せて、『猫丸』を振るった。
『まさに荒神――儂の依り代となれる訳だ』
その荒ぶる姿に、菅原道真は誰にともなく呟いた。そして、
『して、お主はそこで膝をつき続けるのか?』
視線を向けず、傍で俯く望に向かって言の葉が紡がれる。
「……私は剣に負けました。本当の意味で剣の
弱々しく呟く望。
『奢るなよ小娘』
それに対し菅原道真は怒気を孕んだ声で答える。
『自分が助けられたとでも思っているのか? 神が一人の人間如きの為に己が身を焦がすなどと本気で思っておるのか? バカバカしい。儂は儂がしたい事をしただけじゃ。あの黎が気に食わなかったから青稲妻を放った。事実はそれだけじゃ。自分に都合のいい解釈をするのは勝手じゃが、それを他人に押し付けるな』
「で、でも」
菅原道真の詭弁に恐る恐る否定を示そうとする望。
『あの者を見よ。今あ奴が身を削って戦っているのは、お主が頼んだからか? そうではないじゃろう。あ奴はあ奴自身がしたい事をただ全力でしているだけじゃ。確かに、したい事と出来ることが重ならないことはままある。しかし、それを出来るようにすることが出来るのが人間じゃ。たゆまぬ日々努力、研鑽。その過程のみが自信となる。お主の努力はこの程度のモノだったのか? 否。望み続けたライバルとの戦いに敗れ、打ちひしがれるお前の姿を見て、それでも尚神たる儂が言おう―――否であると。縁を結んだその日から儂とお主は一心同体。お主の日々は儂の日々と同義である。儂を否定する事など許さん。自分の行動に他者を巻き込むな。自分の意志を貫け。お主等なら出来るはずじゃ。我が依り代、菅原望』
「――⁉」
自分が好き勝手にしているというのに、望と自分は一緒だと言う。まったくもって支離滅裂である。
しかし、そんな事よりも。出会って初めて呼ばれた自分の名に驚愕する望。
そして思う。本当に良いのだろうか、と。
弱い自分が剣の横に立って戦っても。
弱いくせに対等ぶって、逆に足を引っ張らないだろうか?
「でも」
俯いていた顔を上にあげる。
「あの日々は本物だから」
肌を裂き、血を流し、それでも縦横無尽に駆け巡る剣。
「剣に出来なくて私に出来ることがある」
一刀で数体同時に薙ぎ払われる黎でが、その数は減っていない――いや、むしろ周囲の闇が一段階濃くなったようだ。
「――公。まだ一緒に戦って頂けますか?」
確認の言葉を呟くが、答えを聞く前に望は立ち上がり、弓を構えていた。
『愚門じゃ』
その姿に薄く笑みを零し、神もまた立ち上がる。
『分かっておるな?』
「はい。黎(アレ)は剣では倒せない」
『然らばどうする?』
「私が放てる最高の一射をもって消滅させます」
『出来るのか?』
「愚門ですね」
綺麗な微笑荷を浮かべて望は言った。
「――――――ッ」
叫ぶ。言葉の意味は今までと同じだが、込められた意味は真逆。覚悟は決まった。
後は信じてもらえるかどうか。でも、それは
ただ、思うままに、今したいことをする。
望が立ち上がったころ、それには気付かず、剣はひたすら駆けていた。
数が減らない。
静かに焦燥が剣を襲う。
切って、凪いで、叩き伏せても尚、黎は死ななかった。
崩れ落ちたその場から、分裂したように蠢き再び襲い掛かって来る。切る度に小さくなるが、数が増える。ならば、そのまま無害と言えるほどに細切れにしていこうかと思えば、他を相手している内に寄り集まって大きくなる。
決定打がない。
腕を、足を止める気はないが、それでもいつか限界が来る。そして、その瞬間世界は黎に覆われるだろう。ソレはそう遠くない未来であることを剣は感じていた。
「だけど、足搔いてやるさっ。可能性は、まだ、ある」
剣はただやみくもに戦っていた訳ではなかった。
勝算は、あった。
他人任せで、自分でも情けないが、それでもこの状況を打開する起死回生の一手。
【神ノ遊戯】とは。
あの黎な何なのか。
何故望が狙われたのか。
これまでの出来事を思い返す。
【神ノ遊戯】とは人と神が共に戦う神事。
本能が叫ぶ。黎とは、この世に在らざるモノ。
黎に望が狙われた理由。弱っていたから? 戦いの定石だ。剣でもそうする。しかし、あの時望の傍には弱っているとは言え菅原道真(神)がいた。望自身も確かに弱っていたが、自動兵器の様な神が傍らにいては躊躇いが残る。他にもっと狙いやすい敵がいたハズだ。自分に向かって来る、神をその身に纏わないただの人間――そう剣自身である。
剣が切りかかり、黎が嗤った。まさにあの時、最も確実に倒せる敵は剣であった。
時間がかかっただろう。しかし、自分たちは無限に立ち上がるのだ。まさに剣が負けるまでは時間の問題であった。
しかし、望が狙われた。これの意味するところは。
戦いにおいて弱者を狙う以外に、もう一つ定石がある。
万全の内に自らの天敵を真っ先に倒す事だ。
思えば、望の周りだけ闇の進行が遅かった。
今この場で、切り札足り得るのは菅原望。剣はただ、待ち続けていたのだ。決して四肢を止めず、疑わず、望が再び立ち上がるのを。
「守ってっ 剣ッ」
そして、待ち望んだ声が響いた。
「ったく、おせぇよ」
限界に異界状態で、しかし剣はほほ笑んだ。
左手に弓、右手は
肩幅に足を開き、両手を腰に添える〝足踏み〟
弓を左膝に置く。神気を丹田に集める〝胴造り〟
右手を弦に。的を見る〝弓構え〟
静かに両腕を同じ高さまで持ち上げる〝打ち起こし〟
そこから左右均等に弓を引き分ける〝引分け〟
呼吸を整え、神気が満ちるのを待つ〝会〟
動作に合わせて祝詞を奏上する。
掛けまくも
筑紫の日向の橘の
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと
奏上するは
その詞を受け取るは人物神、菅原道真。
人にして、神となった傑物。その姿が掻き消え、望と一体になる。
一度魅せた『
至る所が擦り切れ、その柔肌を晒していた巫女服が姿を換える。
赤と白の基調はそのままに、袖口は大きく広がり、赤の格子模様が浮かぶ。膝丈ほどになった袴は両脇に大きく赤い布地が舞う。乱れた髪は赤い紐で一つに括られ、その中心には天の文字。露になった素足はしかし、白の長足袋で覆われ、所々に赤い格子模様。足元は黒下駄。
きた。
祝詞と
「――射ッ」
胸郭を大きく開き、天を目掛けて見えぬ矢を放つ〝離れ〟
不可視の矢はしかし、確かな質量を持って大気を裂き、天を駆けた。
発した矢をそのまま見つめる。暫しして、天で矢が弾けた。
昼と間違えるほどの閃光。両腕をゆっくり腰に戻し、闇に慣れた瞳を一瞬伏せ、再び正面を見据えた“残心”
そして、天より光の矢が降り注ぐ。
ギィィィイ
ギャギギイッィ
ゴァァァァァ
断末魔がそこかしこで響き渡った。
しかし、それも一瞬。夜闇が戻った時には、そこは普段と変わらぬ静寂が漂う神域。
菅原天満宮、その参道前の公園であった。
「……終わった、の?」
その場に茫然と佇む望みが震える声を漏らした。
同時に神威(かむい)が解け、菅原道真がその姿を現した。
『誇れ。最後の一射は、まごう事なき神の一射であった』
変わらぬ威厳を込めて放たれた言葉は、しかし、満身創痍。神人一体であったからこそ望にはその強がりが分かった。
「ありがとう、ございます」
それでも、言わずにはいれなかった。望に勇気を与え、あるべき姿を諭し、自分の事を棚上げし、共に戦ってくれた偉大な神に。
ドサッ
その時何かが崩れ落ちる音がした。
慌てて視線を向ける。
「剣⁉」
そこには倒れ伏した八雲剣の姿があった。
『行ってやれ』
薄れ行く意識の中で、剣は夢を見ていた。
『わははッ 見事見事。何もせず終わるかと思っておった遊戯じゃが、どうしてなかなか楽しめるではないか! まさか儂自身と戦う事になろうとはなっ』
その傍らで紫電をまき散らしていた少女が快活に笑い、消えていった。
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