大人のはじまり

駒野沙月

お酒が飲めれば、大人なの?

※注意:お酒は二十歳から。節度をもって楽しみましょう。



 何でもない日の夜のことだった。

 事前の連絡も何も無しに、バイト帰りの早紀は突然俺の部屋にやってきたのである。


「ちょっと付き合って」

「…何に?」

「初飲酒!」


 頭と肩、それと自慢だというロングの黒髪にのった雪を落とすこともなく、彼女は俺を暖かな部屋から引きずり出す。

『初飲酒』。漢字にしてしまえばたった三文字の言葉だけれど、彼女にとってその言葉に込められた意味は俺達が思っているよりもずっと複雑なものだった。


 大学二年の俺たちは、現在二十歳である。俺は五月生まれだけど、早紀は二月生まれだから彼女が二十歳になったのは割と最近のことになる。

 当然、一月には成人式だって済ませているのだが、某ウイルスの影響もあってか、例年なら成人式後に開催されていた同窓会や地域のつどい的な行事は全面中止。一応、個人で集まろうと思えばできたけれど、なんとなく皆そんな雰囲気にはならず、成人式を終えた俺達は各自自宅へと帰宅した。そんなわけで結局、少なくとも俺の周りでは、同窓会的なものは全く行われなかったと聞く。


 成人式周辺の行事でアルコールが提供されない。この事態が、果たして何を引き起こすか。

 やけに大仰な物言いになってしまったが、簡単な話だ。成人式後に誕生日を迎える早紀や他の早生まれの同級生たちが、人前で酒を飲む絶好の機会を失ったということである。(本当はそれで正解なのだろうけども)


 まあ、別にこのタイミングでなくとも、二十歳を越えてから自分で飲めば良いだけの話である。

 だが、そこは根が真面目な彼女のことだ。酒は体に悪いし飲まずに済むならそれでいい─なんてことを思っていてもおかしくはない。

 実際、彼女は律儀にも誕生日を迎えるまでは酒を飲まなかったし、誕生日を越えてからも一度も飲酒はしていなかったそうだ。


 早紀が二十歳の誕生日を迎えてから、気づけばもう数週間。これまで何かと理由をつけて飲酒を拒否していた彼女だったが、今回ようやくその決意を固めたらしい。

 一体、どういう心境の変化だろうか?


「おお、ついに覚悟決めた?」

「…別に、そんなんじゃないけど」

「ふうん。んじゃ買いに行くか」


 いつか彼女とも酒を飲みたいと願っていた俺としては喜ばしいことではある。しかし、当の本人はどことなく気落ちしたような顔だ。

 そのことに内心首を捻りつつ、俺は服を着替えて彼女と外に出た。


 もうすっかり夜も更けた時間だ。徒歩数分の所にあるコンビニに入れば、やる気なさげな「らっしゃーせー」の声が俺達を出迎える。

 酒のコーナーでしばらく悩んだ末、早紀が選んだのは度数3%のチューハイだった。期間限定のいちご味で、これまた限定のパッケージが随分お気に召したらしい。俺の方は特にこだわりはないので、適当にビールにしておく。

 いくつかつまみも選んで、会計を済ませて外に出る。暖かい店内にしばらく滞在していたのも相まってか、寒風が体にしみるようだ。

 生まれて初めて受けたのであろう年確に今もそわそわしている早紀には悪いが、早く家に帰ろう。


◇◇◇


「んじゃ、早紀の成人祝いに」

「ありがと」


 帰宅して雪を落とし、腰を落ちつけた俺たちは乾杯のつもりで軽く缶を合わせた。プシュッと音を立てて開けられた缶を、早紀は恐々とした手つきで傾けていた。


「大丈夫そう?」

「…意外といけるかも」

「なら良かった。一気飲みはしないように」

「分かってる」


 案外苦くないものなのね、とは早紀の言葉だが、多分それは彼女が飲んでいるそれが甘々のチューハイだからだと思う。度数もそんなに高くはないから、少し強めの炭酸ジュースくらいの感覚で飲めるのだろう。

 軽い悪戯心から「俺のも飲んでみる?」と差し出してみたところ、一口舐めてすぐに「にがっ」と突き返された。見かけによらず子供舌の彼女の口に、ビールはまだ早かったらしい。


 つまみやチェイサーも交えつつ、しばらく酒を楽しんでいた俺たちだったが、不意に早紀が呟いた。彼女の顔は、頬の辺りが少々赤らんでいる。


「…なんか顔熱くなってきた」


 ちびちびと飲んでいたとはいえ、流石に酔ってきたのだろう。冷えた手の冷たさを楽しむように自分の頬に手を当てる早紀の顔は、いつもよりどこかふわふわしているように見えた。


「酔った?ちゃんと水も飲めよ」

「…あのさ、」

「うん?」


 ぽやぽやした顔から一転、悲しそうな表情を浮かべた彼女はぽつりぽつりと話し始めた。


「…今日ね」

「うん」

「ちょっとミスしちゃったの。バイト先で」


─店長に、迷惑かけちゃった。


 泣きそうな目をして、彼女は呟いた。

 詳しくは聞かないし、彼女のバイト先のことだからきっと聞いても分からないけれど、どうやら結構なミスをしてしまったのだろう。少なくとも、彼女にとっては。


 しかし、その目に涙はない。

 いつもそうだ。弱音は吐いても、涙は見せない。でもそれは、彼女が強くなったからではない。


 泣けなくなったから…だと思う。その理由はさっぱり分からないけれど。

 こういう時、下手に「大丈夫」とか「なんとかなる」とかといった、無責任なことを言ってはいけない。とりあえず彼女が吹っ切れるまで、話を聞いてやる。普段なら、それが一番。


「こうやって大人になってくのかなあ、人間って」

「…へえ?」


 しかし、今日は違った。てっきりこの先、自虐だとか誰にしているのかも分からない謝罪だとかが続くのだと思っていたから、続けられたその言葉には少々面食らった。


「仕事でも人間関係でもいいけどさ、なんか嫌なことがあった時、そのまま寝ても忘れられなさそうな時に、そのストレス忘れて寝る為に、こうやってアルコールを入れるの。それで、明日からまた社会に出る…そうやって、人間は「大人」になってくのかな、って…」

「…そう考えるとなんか嫌だな」


 どこか覚束ない口調で、彼女は語った。普段なら理路整然と話す彼女にしては明瞭さに欠けた物言いだけれど、言いたいことは何となく分かった気がする。

 嫌なことを忘れる為に酒を入れる、それが大人なのだと。そんな考え方、少なくとも自分が初めて酒を飲んだ時には考えたこともなかったと思う。


 でも、確かにそうかも…と、今の俺は不思議とその言葉に納得していた。アルコールでふわふわになった頭では大した根拠も理由も思いつかないけれど、ただ、何となく。


 「大人」とはそういうもの。

 ただ漠然と、そう察していたのかもしれない。


「…まあ、そればっかでもないでしょ。酒って」


 一拍置いて、どうにか答えを捻り出したものの、その答えに早紀からの返事はない。隣を見てみれば、彼女はテーブルの後ろのベッドに寄りかかって寝てしまっていた。

 早紀が寝落ちなんて珍しい。俺は一人で苦笑して、ベッドに寝かせた早紀と一緒にその日は眠りについた。


 ◇◇◇


 翌朝、早紀は軽い頭痛と共に目を覚ましたそうだ。飲む前は散々心配していたようだが、これくらいの度数なら別に問題なかったらしい。

 改めて『初飲酒』の感想を尋ねてみれば、「思ってたよりは美味しかったけど、わざわざ酒税払ってまで飲むものじゃないかな」と、普段通りの表情で返された。昨日の諦観じみた発言は幻だったのか、そんな風に思ってしまうくらいには、この時の彼女の表情はさっぱりしたものだった。


(…わざわざ買うものじゃない、ねえ)


 その感覚、是非とも忘れずにいてほしいものである。

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大人のはじまり 駒野沙月 @Satsuki_Komano

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