第18話 平和の崩壊     


 訳が分からなかった。

 戸惑っていると言ってもいい。

 今目の前の状況に対して僕は理解を拒んでいるのかもしれない。


「なんですか? これ? どうしてここでこんなことが?」


 ミスティちゃんも戸惑っている。

 

「あ、あ、ああ……」


 伊藤さんの顔は引きつっていた。手がぶるぶると震えている。

 飛鳥姉さんに至っては一言も話せない。

 それもそうだ。

 目の前の光景はあまりにも現実離れしていた。

 ミスティちゃんがぽつりとつぶやく。

 

「なんなんですか? この化け物は?」


 館の亡き主の書斎。

 その中央に倒れている舞元さん。

 あれだけ傷だらけで。あれだけ血まみれで。

 痛いはずだ。泣き叫びたいはずだ。それなのにピクリとも動かないのは一体どういうことだろう。

 しかも舞元さんの体の上には巨大な狼の魔物がいるというのに。

 立派な銀色の毛を持った普通の狼より二回りは大きい巨体。

 美しい毛並みだが、その口元だけが真っ赤な鮮血で濡れている。

 誰の血なのかは明白だ。


「いやああああああああああああああああああ」


 伊藤さんの悲鳴が書斎に響く。

 あまりにさっきとはかけ離れた状況に、目の前の巨大な狼の魔物はあまりに現実感がない。

 まるでそこにいないかのようだ。

 だけど、現実にいる。

 狼の魔物は悲鳴に反応してこちらに視線を移す。


「Gruuuuuuuuu」


 低い鳴き声で、こちらを威嚇してきた。


「逃げろ!」


 僕は一番取り乱していた伊藤さんの手を引いて、駆け出した。


「なんですか? なんなんですか? 聖書にある悪魔が召喚でもなされたんですか? あんな大きくて鋭い牙に巨体。すぐ追いつかれちゃいますよ」


 ミスティちゃんは取り乱しているようで案外冷静なようだ。

 しっかりと状況判断ができている。


「とにかく走って! 飛鳥姉さんも間違っても戦おうとしないでくださいよ」

「あれは無理ねェ」


 さすがの飛鳥姉さんでも、あの魔物に戦いを挑むのは無謀だと判断したらしい。

 ちらりと後ろを振り向く。

 派手に館の備品を壊しながら僕たちを追ってきていた。

 パリン! パリン! ガン! ガン! と派手は音がする。

 花瓶をなぎ倒し、壁に飾られた絵画や武具はことごとく地面に落ちる。

 また壁には大きな傷跡も刻まれた。

 あんな爪で引き裂かれたらひとたまりもないだろう。


「どこに逃げるんですか?」

「とりあえず、温室に逃げましょう! あの巨体です! 温室のような障害物が多い場所なら身動きがとりにくいはずです。それに木陰に隠れることもできます!」


 直線的に追われる廊下じゃあ、距離を保つことはできても離すことができない。


「Gruaaaaaaaaaaaa!」


 凄まじい方向のプレッシャーで僕たちはさらに追い込まれる。

 

「扉です! 皆さん、速く行ってください!」


 全員が温室に入った後、扉を閉めて鍵も閉める。

 

「どこに隠れたらいいの?」

 

 中途半端な場所に隠れたら見つけられてしまう。 

 あの木陰は? だめだ。あの草むらも背が低い。

 木の樹洞ウロは? 全員隠れられるほどのスペースはない。


「そろそろ扉の音が怪しいわぁ」


 相変わらず緊張感のない声。

 だけど状況は切迫していた。

 扉はガンガンと音がなって軋み、今にも突破されそうだ。

 もはや場所を選んでいる余裕はない。


「池だ! 全員池に飛び込んでください!」


 飛鳥姉さん、ミスティ、伊藤さんが先に飛び込んだのを見届けてから最後に僕が飛び込み潜る。

 次の瞬間、扉が壊れる音がした。

 あの狼の魔物が温室に入ってきてしまったんだ。

 池の中からでも見える巨体。

 狼の魔物はその巨体に似合わない俊敏な動きで温室を動き回る。

 早く行ってくれ! そうじゃないと息が持たないっ。


「んん……!」


 僕の息ではない。伊藤さんの息が持ちそうにない。

 あれだけ生き絶え絶えに走ってきたんだ。無理もない。

 飛鳥姉さんはまだ余裕そうで、以外にもミスティちゃんは祈るように静かに手を組んで目を瞑っていた。

 伊藤さんが苦しそうにもがく。そんな伊藤さんを無理矢理頭から押さえつけ、浮いてしまわないようにする。


「んう……!」


 伊藤さんが池の上を指さす。

 そこには狼がいた。池を興味深そうに見て、すんすんと臭いを嗅いでいる。狼には色覚がないという。さらにこの温室は薄暗いし、むせかえるような植物の臭いであふれかえっている。

 だから見つからない。そう自分に言い聞かせる。

 その証拠に池を見つめているのに僕たちの存在には気付いていない。


「んん?」


 伊藤さんの表情が苦しそうだ。

 今にも空気を求めて外に飛び出してしまいそうな勢いだ。

 魔物はまだ去らない。

 絶体絶命だ。

 ならやれることはひとつだけ。

 ごめんなさい。伊藤さん。

 そう心の中でつぶやいて、僕は伊藤さんにキスをした。

 

「んん!?」


 伊藤さんがうろたえる。

 暴れる伊藤さんの体を無理矢理抱きしめた。

 抱きしめると暴れていた体は不思議とすぐに落ち着き、僕に身を任せてくれた。そして、人工呼吸の要領で伊藤さんに空気を送り込む。

 これで少しは時間稼ぎになるはず。

 残していた肺に貯めておいた空気を出してしまったために僕の限界も近づく。

 もう状況を確認する余裕も残されていない。

 僕と伊藤さんは我慢できずに池から飛び出した。

 新鮮な空気が肺に取り込まれて生き返るような爽快さだ。


「よかったです……。あの魔物はどこかに行ったみたいですね」


 ミスティちゃんが状況を教えてくれた。

 正直、しんどすぎて今は体を動かす余裕がない。


「あらあらあらぁ。二人ともいつのまにそんなに仲良くなってたの?」


 飛鳥姉さんに言われて気付く。

 僕と伊藤さんは抱き合ったままだった。


「ちょっ! 何抱き着いてんのよ!」


 伊藤さんも冷静さを取り戻したのか、顔を真っ赤にして僕を突き放した。


「わっ」


 その勢いで僕は地面に大の字に倒れてしまった。


「あ、ごめんなさい。あんたが助けてくれなかったら、私は死んでた。だから、ありがとう」


 まだ照れくさそうで顔を背けているが、倒れている僕に手を差し伸べてくる。

 僕はありがたくその手を取った。


「伊藤さんが助かってよかったです」

「それなのに突き飛ばしちゃってごめんね」

「大丈夫ですよ」


 そんなに素直に謝られたら、僕も正体不明の恥ずかしさに襲われて、顔から火が出そうだ。


「お兄さんたち抱き合ったり、ずっと手をつないでいたり。ラブラブなんです?」

「ち、ちがうわよ! これは命を助けてくれたお礼よ! あんたなんかどうせ碌に女の子と手をつないだことなんてなかったでしょうし、せいぜい感謝しなさい」

「わかってます」


 伊藤さんはそっぽを向いて怒っていた。

 おそらく空元気だとは思うが、少しでもいつもの調子に戻ってひとまずは安心だ。


「あの狼の化け物。何なのかしらねぇ?」

「それにゆうきさんが倒れてました。あれは……」


 おそらく、舞元さんは死んでいた。

 口に出すと舞元さんの死を、この異常事態を認めてしまうみたいで誰も口には出さないけど。


「これからどうするの?」

 

 伊藤さんが不安そうな顔で僕に聞いてきた。


「そうですね。とりあえずどこかに避難しないといけませんね。そこで時間を稼ぎましょう。どこか内側からカギがかかって、それでいて見つかりにくく、あの巨大な魔物の体当たりにも耐えられそうな場所。誰か、心当たりありませんか?」


 沈黙。

 無理もない。全員この館に来て半日ほどだ。


「私たち二人が落ちた地下室。あそこはどう?」

「良いアイディアです! あそこなら逃げ道も確保できます!」


 地下室でシェルター代わりに作られたのか。出入口は重厚な鉄の扉であの巨大な魔物の体当たりでもビクともしないだろう。

 それに僕たち二人が落ちた穴もある。あれには梯子がついていて、上ることも可能だ。つまり、出入り口が突破されそうになった時の逃げ道もあるのだ。


「お二人はそれでいいですか?」

「いいわよぉ」

「お二人の意見に異論はありません」


 決まった。

 目指すは地下室だ。

 そこでとりあえず身の安全とこれからの身の振り方を考えよう。

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