第15話 修羅場

 「とても充実した一日でしたぁ……」


 帰宅してベッドに腰を下ろした萌香は、天井を見上げながらそう呟いた。


 「俺も久々に出かけて楽しかった。遊び疲れるのも案外心地いいもんだな」

 「そうですねぇ……。私、とりあえずお風呂に入りたいです」

 「先に入っていいぞ」

 「わかりました。ではお言葉に甘えさせていただきます」


 そして萌香は足早に風呂場へと向かった。


 さすがに毎日銭湯に行くわけにもいかなかったので、今は臨時的にリビングと脱衣所の間に暖簾のような仕切りを設けることにより、リビングから相手の裸が見えないように工夫してなんとかやっている。着替える音くらいは聞こえるが、そればっかりはどうしようもない。


 例によって、今もまさに萌香が脱衣している服と体が擦れ合う音が聞こえてきているが、さすがの俺もこんなことで欲情したりはしない。所詮はただの雑音。どうってことはない。


 萌香が風呂に入っている最中、俺は今日スマホで撮った写真を見返していた。それらを眺めていて思うのは、誰かと楽しさを共有することは素晴らしいということだ。俺は一人でどこかへ出かけたりするのも全然好きなのだが、今日みたいに誰かと出かけるというのも、これはまた別の楽しさがあった。もしかしたら、それは相手が萌香だからなのかもしれない。なんにせよ、萌香と出会ってから日々が充実しているのは確かだった。


 ————と、その時。


 「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 突然風呂場から萌香の悲鳴が聞こえてきた。

 俺はすぐさま立ち上がり、脱衣所の前まで駆け寄る。


 「どうした! 大丈夫か!」


 なにやら萌香は風呂場で足をドタドタとバタつかせている。


 「ご、ご……いやあぁぁぁぁぁぁぁ!」

 「だからどうした! 説明してくれないと無理矢理入るぞ!」

 「ご、ゴキブリがいるんです!」


 ————聞いた瞬間、背筋が凍りついた。


 「マジかよ……」

 「お願いです圭太くん! なんとかしてください! い、いやあぁぁぁぁぁぁ!」

 「今俺が突入したら色々まずいだろ! そうだな……とりあえずバスタオルだけでも羽織って出てこい!」

 「わ、わかりました!」


 それから萌香はものすごい勢いで風呂場の扉を開け、あらかじめ洗濯機の上に置いてあったバスタオルを羽織ったようだった。


 「入ってもいいか?」

 「はい……」


 暖簾をくぐると、そこには全裸にバスタオルを羽織っただけの萌香が、今にも泣きそうな顔で立っていた。


 俺は少々目のやり場に困りつつも、なんとかして声を出す。


 「虫、苦手なのか……?」

 「大嫌いです……」

 「俺もだ……」

 「…………」


 その場に沈黙が流れた。


 ……そう、俺も虫が大の苦手なのだ。小さい頃こそ虫取りによく行っていたような気もするが、なぜか中学に入ったあたりから、からっきし虫が駄目になった。それこそゴキブリなんかが目の前に現れようものなら普通に絶叫する。なので萌香が悲鳴を上げた気持ちもよくわかっていた。


 ……しかしながら、この状況はかなりまずい。なにせここは俺の家だ。ゴキブリが出たというのなら、なにがなんでも撃退しなければならない。さもなければ安眠なんてとてもじゃない。


 俺は冷や汗をかきながら、どう対処すればいいのか思考を巡らせた。


 ————そして、あることを思い出す。


 俺は咄嗟に側にある洗剤などが入っている棚を開けた。


 「……あ、あった!」

 「なにがあったんですか……?」


 不安そうに身を縮こまらせている萌香に、俺はそのスプレー缶を手に取って見せつけた。


 「こ、これは……!」

 「ゴキジェットだ!」

 「おー!」


 萌香は不安そうな顔色を一気に晴らして歓喜した。


 俺は心の中で、万が一のためにゴキジェットを買った過去の自分を称える。


 そうしていると、心なしか熱い気持ちが湧き上がってきた。


 「よし! やってやろうじゃないか!」

 「やっちゃってください!」


 期待を膨らませる萌香を横目に、俺は一度深呼吸をしてからドアノブに手をかけ、奴を撃退するべく勢いよく風呂の扉を開けた————。


 「あれか……」


 奴は壁の隅にいた。サイズはおそらく普通か少し大きいくらいだろう。


 目に入っただけでも不快極まりないが、ここで引くわけにはいかない。奴を仕留めなければ、我が家に平穏は訪れない。


 「……よし、見とけよ」

 「やっちゃってください!」


 つにに俺は風呂場に足を踏み入れる。 


 ————するとその瞬間……。


 「ひぇぇぇぇぇぇぇ!」


 奴がこちら側に向かって少し動いた。


 「ど、どうしました!?」

 「な、なんでもない……。奴がちょっと動いただけだ。ふぅ……」


 俺は自分を落ち着かせるために脱衣所の方を向いて一度深呼吸をした。そうすると必然的にバスタオルを羽織っている萌香が視界に入る。萌香はさっきまでの怯えた様子ではなく、なぜかどこか楽しそうな顔をしていた。


 「……なんか楽しそうだな」

 「え? 私ですか? そ、そんなことはありませんよっ」

 「そうか」


 変に怯えられるよりはマシな気もするのでまあいい。今はとにかく、奴を仕留めることだけに集中せねば。


 「よし! 気を取り直して!」


 俺は再び風呂場に足を踏み入れた。


 今度は奴も、特にそれといった反応は示さなかった。


 やるべきことは至極簡単。奴に近づき、ゴキジェットを噴射すればいい。何も迷うことはない。


 ————そのままだ……動くなよ……。


 俺は心の中でそう願いながら奴に近づいていった。


 そして奴と噴射口の距離がおおよそ20センチくらいまでつまったところで、俺は思い切って噴射レバーを引く————。


 「くらえぇぇぇ!」


 プシューーー!


 強力なジェット噴射が繰り出されると、それをもろに食らった奴はものの見事に壁から浴槽へ落ちていった。


 「や、やったか……?」


 俺はおそるおそる浴槽を覗き、奴の息の根が止まっているを確認した。奴はびくともしないので、どうやら無事に仕留められたようだった。


 「俺の勝ちだぁ!」


 雄叫びを上げる俺に、萌香も飛び跳ねながら喜んでくれた。


 「やりましたね!」


 ————と、思ったのも束の間。


 なにやら耳にがさごそと耳障りな音が入り込んできた。


 もしやと思って再度浴槽を覗いてみると、奴はその黒い羽をまだわずかに動かしていた。


 「おいおいおい。頼むからもう勘弁してくれよ……」


 俺が再び身を震わせていると、奴の羽が動く音は次第に大きくなっていき、しまいに奴はそこから勢いよく飛び立った。


 そして奴は、なぜか俺たちの方めがけて飛んで来やがった。


 「ちょ、おいおいおいおい!」

 「きゃあぁぁぁぁぁぁ!」


 あまりの恐怖に俺たちは二人して手をバタつかせた。それでも奴はそんなことはおかまいなしに俺たちの頭上を飛び回ってくる。


 「くっ、くそおぉぉぉぉぉ!」


 ————ここまで来たら、なりふり構わずやるしない。


 俺は決心し、噴射口の向かう先をなんとか奴に合わせて噴射レバーを引いた。


 「これでトドメだあぁぁぁぁぁ!」


 プシューーー!


 強力なジェット噴射は今回も見事に奴を直撃し、奴はそれをくらって床に落ちていった。


 しかしここで手を止めてはいけない。俺は念の為、床に横たわっている奴に向かって再度噴射レバーを引いた。


 プシューーー!


 「これでもう動けないだろ……」


 しばらく奴のことを見ていたが、どうやらもう動き出しそうにはなかった。完全に死んでいる。


 「ふぅ……。萌香、もう大丈夫だぞ……っておいぃぃぃ!?」


 萌香の方に目を向けると、なんと萌香はバスタオルが剥がれた状態でこちらに背を向けてうずくまっていた。


 「み、見ないでください……!」

 「すまん……!」


 こちらに背を向けてうずくまっているので見えてはいけないものは視界に入らなかったが、それでも裸体の女の子がすぐそこにいるというのはさすがに気が気ではなかった。


 おそえらく萌香は、奴が飛んできた衝撃でバスタオルを剥いでしまったのだろう。そうなる気持ちもわからなくはなかった。


 「お騒がせしました。もう大丈夫です。本当にありがとうございました」


 振り返ると、しっかりバスタオルを身に纏った萌香の姿があった。


 「これで一件落着だな。さ、ゆっくり風呂に入れ」

 「はい」


 俺はその辺にあった適当なゴミ袋で奴を拾ってからリビングへと戻った。


 萌香も風呂に戻って再びシャワーを浴び始める。


 「はぁ……」

 ベッドに腰を落とした俺は、人知れず大きなため息をついた。


 一人暮らしをする上でいつかこういう惨事が起こることは予想していたが、思っていた以上に体力を消耗した。


 俺はなんとなく心を落ち着かせるために近くにあったスマホを手に取る。


 ……するとスマホのロック画面に、なにやら一件のメッセージが表示されていた。


 母:『今週末、そっちの様子を見に行こうと思ってるから、よろしくね』


 そのメッセージを見た瞬間、俺の全身に電流のような衝撃が走った。


 「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 「……どうしました!? またゴキブリですか!?」


 俺の声に、風呂場にいた萌香も思わず反応したようだった。


 「ち、違う……。ゴキブリではない……」

 「じゃあ一体……」


 これはつまり、が同棲していることが親にバレるかもしれないということを意味していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る