第43話 一つ夜

 カンナはしばらくカイの目をじっと見つめた後、正面に向き直って幾度かまばたきをした。

 開きかけた口を閉じてはまた開き、その度に少しずつ目を細めて、カップを包む両の手を震わせた。

 答えは決まっていた。あの手紙に込めた一文だけが、彼女の本心の全てで、なんならもう既に伝えていた。けれど彼女はそれに返答を求めるつもりまではなかった。置き手紙をして姿を消したのは、迷惑をかけたくないなんてことではなく、募る一方の自身の感情にリアクションが見える日が来るのが恐ろしくてならなかったからだ。

 やさしいカイは、やさしい言葉をくれる。その時々に彼女が欲しい言葉を。けれどそのやさしさは、カイが彼女を想ってのものだろうか。彼女のためだけに用意した、特別なものだろうか。風化してしまった自己肯定感では、とても自分がそんな存在になれるとは思えなかった。今、彼がそう言ってくれても、明日は? 明後日は? 来月は? 継続して愛された覚えのない彼女には、未来への希望というものが持てなかった。

 誓いや約束を守ることの出来る者を、彼女は知らない。

 もう一度カンナはカイの方を向いた。カイはまだ、彼女を見ていてくれた。

(信じてみたい)

 分かってはいた。信じてみるより他に、報われるという結果を得る術はないのだと。

(でも、怖い)

 裏切るというようなことは、カイはしないだろう。だが彼女から心を離すような日は、いつか来るかもしれない。最も身近な存在――両親の離別を幼くして目の当たりにした彼女には、恋愛に幻想を抱くのは不可能な話だった。もし、この世界に本当に永遠の愛があるのだとして、彼女に与えられるとは、とても思えなかった。

 誓わせることにも、契らせることにも、彼女の不安を取り払う術はない。言葉以上の証をキスやセックスに求めたところで、夜を明かすために幾度となく繰り返してきた彼女には、全く別の意味にしか受け止められない。彼女を安心させるものを、彼女は思いつけない。だから、何も口に出来ない。

 ただ救いを求めるように、潤んだ瞳でカイを見つめ返すことだけが、彼女に唯一残された所作だった。

(どうしたらあなたをいつまでも愛せて、あなたにいつまでも愛されるの)

 カイは静かにまばたきを一つして、何度か小さく頷いた。まるで、彼女の瞳の向こうに隠れた恐れや不安を、見つけてくれたみたいに。

「そうだよな。言葉で簡単に答えを出してみても、お互いなかなか信じ切れないもんな」

 眉尻を下げて、口元にささやかなゆるみを持たせた微笑は、彼女が初めて目にするカイの表情だった。

「じゃあもう良いよ、答えるのは。ただ一つ、行動で示してくれ。もしお前が、俺とまだ一緒にいてくれる気があるなら、これまで通りに俺の家に来てくれ。それだけで良い。いつか信じられるようになる日が来て、その時にまだ覚えてたら、返事の一つでもしてくれ」

 それは結局のところ、逃げなのだろう。けれど、彼女には最高の赦しで、自分を嫌わないで済む猶予だった。

 カンナはゆっくりと、けれど確かに頷いた。

 明日も、明後日も、来月も、彼女はここに来るだろう。カイが良いと言ってくれる限りは、いつまでも。彼女の思っていることを、伝える代わりに。

「よし、じゃあこの話は終わりな。飯でも食いに行こうぜ」

「えっ」

「何だ? 空いてないか?」

「い、いや、そういうわけじゃないけど……」

 そんなにすぐに気持ちを切り替えられない、そう言いたかった。でも確かに、この空気のままでいたところで息が詰まるのは明白で、無理に合わせてみることにした。

「ううん、ごめん、行く」


 その夜遅く、カンナはソファで眠るカイの前で膝を抱えて座っていた。

 カイのくれた選択肢は、彼女にとって真剣になりすぎないで済む救いだったのは間違いなかった。けれど同時に、失うことを恐れるがために、愛という確約を得られない、結論からすればこれまでとほぼ変わりない思考の置き換えにすぎないのもまた事実だった。

 拘束力を持たない緩い契約は、カンナがいつ消えることも容認していた。眠れない深夜に訪れる不安からまた衝動的に逃げ出すことを、認めていた。

 カンナは今、幸せだった。きっと明日も、明後日も、来月もそうだろう。でもいつか、そうでなくなる日が来るかもしれない。そう思ったら、幸せな今を胸に抱えたまま、どこへともなく走り去ってしまえたら――

 ハッとした。ソファから垂れ下がった彼の手が、カンナの五指を握っていた。

「行かないでくれ」

 その言葉に、カンナは泣いた。

〝俺はお前といるのが楽しかったらしい〟

〝つまり、俺は――お前ともっといたいってことだ〟

 彼は一度も、カンナにどうしてほしいかは言わなかった。彼の本当に思うところを、言ってはくれなかった。

〝言葉で簡単に答えを出してみても、お互いなかなか信じ切れないもんな〟

 相手の言葉を、という意味だと思っていた。けれどそれは、自分の言葉についてもそうだったらしい。

「行かない、行かないよ、私。こんなにもカイのことが好きなんだもん……」

 一人で泣いた時とは違う。目の前に、そのために流せる人がいる。

 彼女はカイの左胸に頬を寄せた。彼の手に握らせたまま、泣きながら眠った。

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