第42話 言葉が固める


「カ、イ……?」

 きっと彼女はカイが来るだなんて予想もしていなかったのだろう。カメラがついていないインターホンでも、彼はボタンの少し上を見つめて、再び声をかける。

「出てきてくれるよな。俺が折角会いに来たんだ」

 彼の中で、男というのは傲慢な存在だった。女に手のひらを見せて差し出すのを優しさだと思っているし、そこに手が伸ばされると信じて疑わない。手を取ればぐっと引き寄せる様には無理矢理さが現れるし、結局女はそういうのが好きだと信じてやまない。

 けれどそんな男のあり方は、あまりに脆い心が纏う虚勢だと、己の弱さと一緒に夜を明かし続けた彼には思えてならない。男とは、最後には選ばれるか選ばれないかなのだ。選ぶことが出来る者こそ、真の強さを持つ者で、男には決して、その瞬間は訪れない。だから強くあろうと振る舞うのだ。強さに憧れるのだ。

 答えを寄越さない彼女は、今まさに選択の最中なのだろう。ここに来て、彼は初めて選ばれるかということが不安で仕方なかった。思えば、成り行きで一緒になった恋ばかりだった。ハッキリと選ばれた記憶など、ありはしなかった。それは、美羽とでさえ。危機が訪れればそれまでで、空いた部分に替えを宛がうことで過ごしてきた彼には、ともに歩んでいきたい人など、一度もいなかったのかもしれない。

 唾を飲み込む音さえ聞こえたのではないだろうかと思うほどの緊張感に見舞われた時、「待ってて」とだけ返ってきた。

 もうインターホンから目を離した彼は、彼女が出てくるまでの僅かな時間を手を擦り合わせながら待った。追いかけるのも、待つのも、彼の恋では初めてだった。

 ドアが開く音を耳にした彼が、どれほど顔の明度を上げたことか。それを目にすることができたのは、この世でただ一人。神様でさえ、それは知らない。

 急いで着替えたのか、クリーム色のセーターの袖は少しめくれていた。

 カンナは何か言おうと口を開いたものの、唇を結んでしまった。

「とりあえず家、来ないか?」

 ここは二人の居場所ではない、そんな気がした。カンナはおずおずと頷いて、二人は場所を移した。彼の家に着くまで、一言も会話は交わされなかった。

 カイが玄関のドアを開けても、カンナは廊下に立ったままで、なかなか足を踏み入れようとはしないでいた。

「何か温かい飲み物淹れるから、適当にくつろいでてくれ」

 彼は「何遠慮してんだよ」とか、「いつもみたくしたら良い」とは言わなかった。今日初めて来た客人にかけるような言葉を残して、無理に中に入ることさえ求めず、そのまま一人で部屋の奥に進んだ。

 カイが手を離せば、ドアはひとりでに閉まっていく。閉まりきる直前で、カンナは手を伸ばした。それは無意識の行動だったが、カイとの隔絶を望んでいないことを彼女に思わせた。

 カンナは伏せていた顔を上げて、再び彼の家の敷居をまたいだ。もう何度も来ているはずなのに、初めて訪れた時のような緊張感が彼女を包む。そこは他人の家に他ならなかった。

「とりあえずあったまろうぜ」

 カイはローテーブルの上に二人分のカフェラテを置いた。テレビは点けなかった。

 そっとカップを手に取ると、彼女はチロチロと舐めるように口に含んだ。カイはといえば、対照的に勢いよく喉奥に流し込んだ。

「カンナじゃないんだってな、下の名前」

 彼がそう言うと、カンナはびくっと肩を震わせた。

「お前ん家まで案内してくれた子が教えてくれた。でもそんなことは別に良いんだ、俺は。お前が何を隠してて、何を教えてくれなくても、気にしない。お前が本当はいくつで、どんな家庭状況で、どんな人生を送ってきたかも、正直、ほとんど関心ないから、俺は。そういうのは、話さなくて良い。ただ一つだけ、お前が本当に俺から離れたいのか、ってだけ、それだけが知りたい」

 カップを置きながら、彼はまだ言葉を続ける。一人で話し続けるのは、恐れゆえだと分かっていた。カンナの言い分を先に聞いたら、もうそれ以上の言葉は出せない気がして。

「先に言っとく。お前が俺ん家に来たのは、迷惑なことでしかなかった。一度だけじゃ飽き足らず、何度も泊まりに来たのも、迷惑だった。けど、その内慣れてきて、お前が来るのが日常になって、俺はどっかでお前といるのが当たり前に感じてた。いや、もっとハッキリ言うなら、俺はお前といるのが楽しかったらしい」

 おかしな話だよな、と口にした彼は、カンナの顔を見ない。

「面倒くせえ、鬱陶しい、って思うことはもちろんある。けどな、そんなのはお前に限らず、俺は誰にだって同じように感じるよ。俺は、そういう奴だからな」

 長い前置きは、保険。一番大事な言葉は、口にするにはあまりに重たく、勇気が要る。

「つまり、俺は――お前ともっといたいってことだ」

 彼は内頬を噛みながら、気恥ずかしさを堪えた。「好き」という感情は彼の中にはない。だが、それに代わる、彼にとってはそれよりもずっと重要な心が、正直な言葉として表れていた。

 それからようやく、彼は彼女の顔を見つめた。

「お前は、どう思ってる?」

 逃げないように。彼も、彼女も。

 余計なものを全部横に置いて、ただ一つだけの答えを、彼は求めた。

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