第41話 魂は彼女のもとに


 自身の名前を口にする際、言い淀んでいた理由がやっと分かったものの、本名を告げないということはカイへの信頼の無さを示しているようで、彼は自身の行動の是非が一気に後者に寄ったような気がした。

「あ、でも、最初にカンナだって伝えたなら、後から本名じゃないんだ。ってことは、伝えるのは勇気要ることかも。お兄さん、カンナと上手く行ってたんでしょ?」

 彼は小首を傾げつつも、「まあ、それなりには」と答えた。彼女の絶え間ない訪れは、彼の家が居心地の良い場所だったことを意味することは確かだと思えた。

「あの子、ここ二、三カ月くらいかな、すごく可愛くなったんだよ。時々ね、何でもない時に頬が緩んでるときがあるの。ちょっと嫉妬しちゃうくらい可愛い顔してるんだよ、あの子。今日、お兄さんを見た瞬間、ああ、なるほどな、って分かったんだよね。だから変な風には思わないでほしいな。私らだって、カンナのことカンナって呼ばされてるし」

 カイの方を向いて、マナミは微笑む。崩れかけた彼の心はどうにか持ちこたえた。

「あいつ――」

 本名は何て言うんだ、と聞こうとして、それは本人の口から聞き出すべきだと思い直した彼は、「なんでカンナって言うのか知ってる?」と尋ねた。

「えっとね、確かお父さんの方の苗字がカンナ、神無しって書く神無ね、で、お母さんの方の長瀬で呼ばれるのが好きじゃないらしくて、あ、でもなんで下の名前もダメなんだろ? ごめん、あんまり覚えてないや。カンナ、って名前っぽいよね、みたいな話はしたような気がするんだけど」

 本当の苗字が長瀬というのも、カイには初耳だった。あれだけ一緒に過ごしてきたというのに、苗字が必要になることは一度もなかった。

「ありがとう。細かいところはあいつから直接聞くよ」

「うん、それが一番良いんじゃないかな」

 マナミらがカンナと呼ぶのに落ち着いたのも、カンナの策略だったようにカイは推理した。初め苗字でさん付けをしていたような頃に、父方の姓で呼んでほしいと彼女から提案したのだろう。「下の名前みたいで覚えやすいでしょ?」なんて言いそうだな、と思う。

(本当に隠したいのは下の名前、か)

 そこに彼女の一番触れられたくないものがあるような気がした。自分を自分だと示す最大のもの。彼女は一体何を知られたくないのだろう。それを紐解くことこそが、彼女を知ることに繋がる――

(それは俺の役目なんだろうか)

 彼はふと、高校生の頃に読んだ評論の一節を思い出した。

〝古代では、名を知られるということは魂を支配されるということと同義だった〟

 確かそこには、あるエジプト神が本当の名を知られたがために、力まで奪われてしまったというエピソードが例示されていたはずだ、と思い返す。

 カンナの名前を知ることは、カンナの全てを受け容れることに等しい。彼はそう確信した。

 一瞬の躊躇の後、カイはつい数日前の出来事を思い出した。

(それなら、俺の魂はもう支配されてるな)

 きっと彼女ほど深刻ではないにせよ、彼は自分が赤間海と記すことを伝えていた。それもわざわざ。美羽は名簿を見ていたから、はじめから知っていた。だから、彼が彼の意志で伝えたのは、この世でただ一人、カンナだけなのだ。

(何だ、俺はもう答えを出してたのか)

 こんな大胆な行動までしてるしな、と自嘲した彼は「その前にまずはちゃんと仲直りしないとな」とマナミに微笑み返した。

「今頃あの子、一人で泣いてるよ。あの子、本当にお兄さんのこと好きだもん」

「だろうな」

 そう答えながら、彼は一度も直視してこなかった彼女の本心を人伝てに知らされて、胸に圧力がかかるのを感じた。その重圧に耐えられなくなるから、無数の恋を破綻させてきた。今度のは大丈夫だ、と根拠の無い自信を持つことはもう出来ない。けれど、今度のは大丈夫にする、と誓わないのも有り得ない。彼の望む未来さきは、そこにしかないのだから。

 マナミはカイが依然として前向きなのを一瞥してから、再び歩き出した。

 それからしばらく歩くと、彼女は「ここだよ」と古いアパートを指差した。カイが住んでいるのより随分と老朽化が進んでいたが、二階建てな点では勝っていた。

「私が行くより、お兄さんが行った方が良いと思うけど、やっぱり私が先に声かけた方が良い?」

 カイは少し思案してから、「いや、俺が行くよ」と返した。「それなら私はここまでで。頑張ってね、お兄さん」と彼女は小さく手を振って、あっさり行ってしまった。お礼を言いそびれたカイは、遠ざかっていく背中に小さく、「ありがとな、本当に」とかけた。

 玄関の方に向き直る。NAGASEと剥がれかけのシールが表札代わりにポストに貼られていた。

 インターホンに伸ばそうとした人差し指は逡巡して、前後に踊る。だが最後には大きく息を吸って、深く押し込んだ。築年数を思わせる古びた呼び鈴の後、「……はい」という声が返ってきた。一瞬母親である可能性もちらついたが、駐車場に車がないのを確認して、それについては排除した。

「会いに来た、お前に」

 迷いのない、覚悟と決意を思わせる力強さだけが、そこにはあった。

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