第39話 やさしく、しずかに、ひとりで

 カンナはファーストフード店のカウンター席で、何をするというでもなく、スマホの画面と見つめ合っていた。自身の決意のためにLINNEまで削除したものの、それは本心まで納得させることの出来るほどの代物ではなかった。むしろもう引き返せないと思わせるだけの辛い証拠でしかなかった。彼の場合と違って、彼女はその気になればいつだって彼の元を訪れることは出来たけれど、決意もまた真実ではあったから、良しとすることは出来なかった。

 ずっと背中を丸めた姿勢をしていたせいで体が凝ってきた彼女は、一度背筋を立て、やや身体を後ろに反らして伸びをした。だが、突き上げられた拳は後ろを通りかかった誰かに当たってしまった。

「ご、ごめんなさい!」

 慌てて彼女が後ろを向くと、とても綺麗なひとがそこにいた。思わず息を呑むような白い肌に、大きな瞳。女優のような顔をしたその人は、怒るのではなく、なぜかくすりと笑みを漏らした。

 その人はカンナの隣に座ると(他の席はどれも埋まっていた)、「大丈夫」と微笑んだ。トレーの上は無傷だった。

「むしろ、今ので懐かしい瞬間を思い出せて良かった」

 カンナはきょとんとして、美しい瞳を見つめた。

「私ね、夫と喧嘩して出てきたの」

 そう言う彼女は、薬指をさすった。銀の指輪が、指の細さをさらに強調していた。

「それもすごくつまらないことで。彼ね、私が集めてたラバーストラップを間違えて捨てちゃったの」

 唇を膨らませてむくれてみせる様を、現実でやって可愛くいられる人に会ったのは初めてだった。思わずつついてみたくなるのを、カンナは必死に堪えた。

「でもね、さっきの衝撃で彼と会った瞬間を思い出して、許してあげなきゃ、って気持ちになっちゃった」

 ああ、本当にこの人は旦那さんのことが好きなんだな、と思った刹那、カンナは左胸の奥がきゅうっと締め付けられるのを感じた。

「ちょうど同じことしたの、私も。レポートか何か書いてた時かなあ、うんと伸びをしたくなって伸ばしたら、彼にぶつかっちゃって、そこから私たちは始まった」

 そこまで語ると、「あ」と彼女は声を出して、口に手を当てた。

「ごめんなさい、こんな話」

「いえ……仲直り出来そうで良かったです」

 どうせ後は帰るだけだったし、このまま惚気話を聞いているのは今の自分には辛くて、彼女は席を立とうとした。

「ありがとう。あなたのおかげで私、自分のこと嫌いにならなくてすみそう」

 その言葉は、惚気話を聞くよりも遥かに鋭く彼女を貫いた。カンナは無理にえくぼを作って会釈すると、足早にトレーを返却して店の外に出た。

 襟元をぎゅっと握っていなければ、苦しさでどうにかなってしまいそうだった。

〝自分のこと嫌いにならなくてすみそう〟

 カンナにはあまりにも残酷な言葉だった。彼のためを想ってした行いは、彼のためだけでなく、自分のためでもあると思っていた。いや、言い聞かせていた。だがそれは、自己満足にさえならない、ただ自分を傷付けるだけの行為に過ぎないと突きつけられてしまった。

 もう長い間、彼女は自分のことが嫌いだった。自己肯定感とかいう感情を、二度と持てないと思っていた。それなのに、カイとの出逢いは、自分がまだ自分を好きになれることを告げ、あまつさえ未来へのささやかな希望さえ抱かせた。それを断ち切ったのは、彼女自身だ。

(それでも間違ってない、間違ってないの、私の選択は)

 歪んでしまった母親との関係、肌を重ねることで雨露を凌いできたこれまでの過去、何と定まったわけでもないこれから、そういったものを背負った彼女は、人並み以上に人の道を歩んでいる彼には、相応しくないに違いない。もしこのまま一緒にいて、育ってしまった恋心を告げたとして、彼は首を横に振ってくれるだろうか。そう考えたら、向けてくれた全てのやさしさが、真実には見えなくなってしまって。

〝勝手にしたら良い。いつもみたく〟

 彼はカンナを受け容れてはくれる。けれど、解きほぐそうとはしてくれない。あんなに無防備にしてきたのに、彼は一度だってその肌に触れようとはしなかった。真実の彼女と向き合っていくつもりは、彼の中にないのだろう。

(違う、私が勝手に信じられなくなっただけ。カイが想ってくれないのを、カイのせいにしてるだけ)

 痛みの理由を、カンナはやっと理解した。

 するとはらはらと、熱を帯びた雫が、重力にしたがってこぼれていく。熱い涙は、あまりに久しぶりのことで、はじめ彼女はそれが何なのかさえ分からないでいた。

 彼女は失恋した。やさしく、しずかに、ひとりで。

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