第38話 砕心の行方

 うどん屋は賑わいを見せていた。

 藤堂はイカ天を食みながら、至上の喜びを頬に見せた。以前行ったイタリアンレストランよりよっぽど嬉しそうに映る。

「和食が一番好きだったりします?」

 小首を傾げながら、彼女は「言われてみれば確かに」と言った直後、「でも美味しいものは何でも好きです」とはにかんだ。どうやら彼女の幸せの受容体は非常に働き者らしい。

「赤間さんは何が一番好きなんです?」

 その問いに、また声がよみがえる。

〝私、何だって作ってみせるよ〟

 だがカイは、その声を遠い昔に聞いたもののように捉えることにした。懐かしいだけの、最早どうしようもないものに。

「俺はスパゲッティ全般ですかね」

「おうどんはあんまり?」

「いや、麺類なら大体何でも」

「良かったぁ。『実は俺、蕎麦派なんですよ』とか言われちゃったらどうしようって、内心ビクビクしてました」

 精一杯低くしてみせた声もほとんど変わっていなくて、カイは思わず笑みを漏らしてしまった。どことなく、彼女は東と通ずるところがある気がして、彼にもう少しまともな人間性が備わっていればお似合いなのに、なんて感じた。他人の幸せなら、呆れるほど容易く考えることが出来た。

「むしろ蕎麦はそこまで食べないですかね。何でもって言った矢先でアレですけど」

「何でも良いって、何でも良くないことがほとんどですよね」

 少し困ったように眉尻を下げて微笑んだ藤堂を見ているうち、カイはこの結末は致し方のないものだったと思えてきた。人はあるべき場所に落ち着く。カイはカイの、カンナはカンナの。たとえ二人がどれだけピースとしてぴったり合う形を持っているのだとしても。収まるべきフレームが異なるのなら、ずっとは一緒にいられるはずもない。

「赤間さんってクリスマス空いてます?」

 藤堂は唇の端をそっと親指で拭いながら言った。

「はい?」

 あまりにも突然、なんなら「七味要ります?」と同じようなトーンの問いかけに、一瞬だけ彼は戸惑う。だがすぐに、「いえ、特には」と口にした。どうして胸が痛むのかは考えないことにした。

「じゃあ私と過ごしてもらったり――しても?」

 初対面の相手でも堂々と話せる藤堂が、目を小刻みに揺らしていた。左右の五指は落ち着きなく互いを突き合っている。

 一瞬で無数の未来の景色が脳を駆け巡った。それらのどこでも、藤堂は無垢な笑顔を浮かべていた。彼女に向き合うカイの顔は勿論見えなかったが、彼にはよく分かっていた。

「それは……やめておきます」

 彼はとても柔和な、けれど触れれば冷たい笑みを見せた。

「あー、残念です。お昼が行けたから、もしかして、って思ってたんですけど」

 へへ、と藤堂は決まり悪そうに表情を崩した。

「あ、何か変に気を遣ってもらったりしなくて良いですからね? これからもお昼のお誘いしますし、同じふうに仲良くさせてもらうつもりです」

(ああ、強い人だ)

 強がっているのか本当に強いのか、大げさな身振り手振りでカイに気を遣う彼女を、彼は傷付けたくなかった。自分のエゴで穢すには、藤堂はあまりに光に近い。ここが彼のいるべき場所なのだとしたら、藤堂がここにいるべきではないのだ。

 藤堂はズズーッと音を立ててうどんをすすると、器を持ち上げてつゆを飲み干した。器で隠れた顔が再び現れても、そこに涙があったりはしなかった。

「そういえば、さっき聞いた話なんですけど、小田沢さんやめちゃうらしいんですよ……」

 言葉通り、彼女は何事もなかったかのように世間話を始めた。カイがその話についていけば、ただ昼休憩を一緒に過ごす同僚二人に戻っていた。


 それから次にカイが現実にハッキリと還ったのは、午後八時を回った頃だった。社内の電気は一部だけになっていて、他の社員もまばらだった。それ以上続けても能率が上がらない気がしたし、明日が期限なわけでもないため、彼はオフィスを出た。

 昼間はまだ目立たなかったが、この時間にもなれば社会が二色に染まっているのは一目瞭然だった。帽子に靴下、モミの木。

(とはいえ、空いてるのは空いてるんだよなあ)

 西洋では家族で過ごす日なんだっけか、とか思いつつ、年末年始さえ滅多に帰省しない彼には、聖夜はどこまでも恋人と一緒に過ごす時間だった。

(そういや、クリスマスが近くなると別れ話が出るんだよな。本命のところに行くために)

 いつだったかの彼女が、そうやって自分はフラれたのだと語ってきたのを思い出す。

(俺もそうだったりしてな)

 カンナの言葉のどこまでが真実だったかは、推し量ることしか出来ない。だが彼女の表情の数々を振り返れば、彼を騙くらかすようなものはなかったと、分かってしまう自分がいた。

(バカだよな。あいつのことが気になって、あんな美人と過ごせるチャンスふいにするなんて)

 心の奥底から、抑えきることの出来ない声がする。それはどんどんと大きくなって、今や無視出来ないものにまでなっていた。


 カンナを探せ。言ってやりたいことを全部ぶちまけろ。


 カイはまず、彼女と初めて逢ったあの居酒屋へ向かうことにした。そこにいないなら、いる可能性のある場所をしらみつぶしに当たるだけ。

 その目に迷いは、もうなかった。

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