第37話 影をかき消して
タイプする指先に熱が入り、エンジンがかかれば後は身を任せるだけで良かった。昼休憩に入る頃には、カイはなんなら昼食を抜いてこの仕事を仕上げてやろうかとさえ思うほど勢いづいていた。
「おいおい、昼抜きなんて精が出ますなあ」
後ろを見ずに回転椅子を後ろに引いて、
「こちとらお宅と比べて仕事が遅いもんでね」
「なるほど納得。ま、確かに俺は既に一件片付けてっからな」
カイは額に指先を押し当てると、わざとらしく溜息を吐いた。分かっているが、やはりこういうやつなのだ。脳内の部品はきっと特注のものを使っているに違いない。
「そんだけ注力すんのはアレか? 恋人募集中はとっくの昔に終わってたか? 『ねえ、赤間さん、ワタシ、聖夜はあなたとしっぽり洒落込みたいわ』みたいな奴ですかい? いやぁ色んな意味で精が出ますなあ」
東は気持ちの悪い女声を作って、架空のカノジョを熱演してみせた。カイの感じるウザさはいつもの五割増しだった。
「出来てねえよ、恋人」
ドサッ、なんて音が職場のあちこちで。
東もカイも、反射的に辺りを見回した。多くは女性社員だったが、中には男性社員もいて、カイは後者についてはその理由を深く考えようとしなかった。
「お前……今の一言でどよめいてんじゃねえか。もしかしたら今年は、って淡い期待抱いてた男性社員たちは全員絶望だよ」
「安心しろ。そういうやつには多分今年も何もないから」
「イケメン様には俺ら一般人の涙ぐましい努力が一生分かるわけねーんだよ。何とかクリぼっち回避出来るようにだな」
「悪い、興味ない」
「チクショー! 呪われろ! クリスマスの朝起きたらカエルになってろ!」
捨て台詞を吐いて、財布を尻ポケットに押し込むと、東はぷんぷんしながらその場を離れていった。
彼を最後まで見送ることもなく、カイは再びパソコンに顔を向け直そうとした。
「赤間さーん」
彼は吸いかけの息を勢いよく吐き出すと、声の主の方に視線を向けた。部署の入口に藤堂が立っている。カイは関知しなかったが、先ほど動揺した女性社員たちはどうやってカイを誘うか必死に作戦を練っていたのに、その場に居合わせなかった彼女にあっさり先手を打たれてしまった。
「そんな大きな声で呼ばないでくださいよ。目立つじゃないですか」
「あ、ごめんなさい。最近お話する機会もなかったですから、久々にまともに顔を見られたのが嬉しくて」
カイでなければ、寄ってきた彼女の言葉に男心をひどくくすぐられ、不整脈を感じたところだろう。
「で、何の用です?」
「お昼、一緒に食べません?」
何の影も差さない笑顔に、彼は思わず言葉を失いそうになった。この歳になってもなお、そんな表情が浮かべられるなんてことに、驚かずにいられない。
「はあ、良いですけど……何か仕事とかあったりするわけじゃなく?」
「はい。やっと抱えてたのが落ち着いたので、久しぶりに赤間さんとお話したくて。それに、仕事があっても、新人の私に言づてを頼んだりはしませんよ」
「いや、藤堂さんはもう十分戦力だと思いますけど」
「ほら、お昼終わっちゃいますよ! 行きましょ!」
急かされて、カイは重い腰を上げた。周囲の狩人たちはなるほど、ああすれば良いのかと思いつつも、ちらりと見えた横顔の整いすぎたのに自信を奪われて、再び作戦を練る作業に戻った。
「もう何食べるか決めてるんですか?」
廊下に出ると、カイは藤堂の顔を見つつも、目だけは合わせないようにして尋ねた。
「はい! 今日はおうどんを食べたくて。すぐそこにおいしいって評判のお店が出来たの知ってます?」
「あー、社内でちらほら話は出てますね」
開店初日にどんな店だったか東から鬱陶しいほど聞かされていたから、悪い意味で記憶に鮮やかだった。
「ずっと楽しみにしてたんですよ。抱えてる仕事が終わったら絶対食べにいこうって。せっかくだから赤間さんも誘っちゃおう、って思ったらますます楽しみで!」
まるで明るさが人の形をしているようだな、と思う。それなのにどうして、いつまでも一緒にいると、心が解かれていくような気さえしてくる。その光に心の隈が灼かれるように感じるのに、一方ではなくしてしまったはずの純粋な自分に還っていくようにも思える。
きっと人は、こんな人を傍に求めるのだろうと、淡い水彩画のような横顔にかこつけて考えてしまう。藤堂と歩んでいく人は、確実に幸せと上っていくに違いない。頑なにカンナを拒んでいた彼の理性は、藤堂を手に入れろと語りかけてくる。だがその声を聞けば聞くほど、締め出したはずのカンナの姿が脳裏にちらついてやまない。
だが彼は言い聞かせた。
(もういない。あいつは)
「何だか藤堂さんの話聞いてたら、俺まで過度に期待しちゃいはじめちゃったじゃないですか」
そして作り笑いを自分の本心と偽って浮かべる。千切れた片端に心を砕けば、痩せ細る一方なのだから。
(俺は俺の現実を生きるんだ)
ちらつく影を、彼は藤堂の光でうち払おうとした。少なくとも彼には影が消えて見えるように、立ち位置を変えた。
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