第36話 おしまい
テレビの前のローテーブルの上に、書き置きがあった。クリーム地のメモ用紙は、カイには見覚えのないものだった。カンナの鞄の中に入っていたものだろうか。
カイはそれを手に取って、まだよく働かない頭のまま文字を追いかけた。女子らしい丸文字が罫線の上に行儀よく並ぶ様は、彼女の育ちの良さを感じさせた。家庭がそんなふうにならなければ、全く違う道を歩んでいたに違いないと思った。
〝こんな変な真似してごめん〟から手紙は始まっていた。
〝昨日は嬉しかった。理由も聞かないで優しくしてくれて、カイがやさしい人だって改めて感じた。図書館で困ってる人を助けてたのもそうだし、カイは自分が思うより、とってもやさしい人なんだよ。
でも、だからこそ、私にはそのやさしさが苦しい。これまでだってたくさん迷惑かけてきたのに、今さら何だよって思われるかもしれないけど、これ以上は嫌だな、って思う。カイのやさしさは、もっとちゃんとした人に向けてほしい。私はもう、どうあがいたってまともな人生にはなりそうもないし、カイの人生を踏みあらすのは嫌。
私、カイが好き。好きな人に迷惑ばっかりかけたくない。きっとカイは優しくしてくれる。私が困ったらいつも、文句を言いつつも寄り添ってくれる。それはたぶん、カイにとっては幸せなことじゃないと思う。カイにはカイのふさわしい人がいるはず。
私、幸せだったよ。カイといられたこの数か月、私の人生がもしかしたらもう一度良いカンジになるんじゃないかって錯覚出来たんだ。だから、錯覚してる間に、カイのやさしさが感じられる内に、離れさせてください。
最後まで勝手な私を、許してね。
さよなら。
P.S. LINNEも消します。会いたくならないように〟
半ば放るようにして、カイは手紙をローテーブルの上に戻した。終わりには慣れていたし、こんな終わらせ方も一度や二度ではなかったけれど、こんなにも怒りがこみ上げてくるのは初めてだった。
「来るなって思ってた頃にやれよ」
綺麗に並んだ文字たちが彼女の本気さを伝えてくる。最後の追伸通り、LINNEからも消えていたし、カイにはもうカンナの居場所を突き止める手段はなかった。彼女の徹底ぶりがどこまで及ぶかは不鮮明なものの、二人が出逢うきっかけとなったバイト先の居酒屋もやめるかもしれない。
カイはベッドの横側に背中を預けると、三角に曲げた膝の上に腕を置いた。
読み取れる本気さとは裏腹に、カンナが助けを求めていることにも察しはついた。手紙を書き置いた時点で、どこかしか後ろ髪が引かれる思いはあるのだろう。だが彼女はその苦しみを抱えた上で、離れる決意をしたのだと彼は考えてしまう。彼はいつもそうしてきた。相手の選択を尊重して、翻意を促すことはなかった。大切にしたい恋であれば、あるほど。彼が決断をする側だったのは、初めの一度きり。それを悔いつづける彼は、最後の選択を自分に課すのをやめた。
(でも、これで良かったのかもしれないな)
〝私、カイが好き〟という一節に、彼は応えられる自信がなかった。応えたい気持ちはあった。けれど、実際に言葉が出るとは到底思えなかった。冗談を口にして、どうにかはぐらかそうとするだろう。
それは年の差だとか、美羽に似ていることだとかに起因するものではなかった。今の彼が何より恐れていたのは、彼の恋愛への耐久性のなさだった。想い続ける、大切にし続けるという根本が、彼には不可能に思えてならなかった。カンナがもっと軽い存在なら、応えもしただろう。恋という名に扮させた、孤独の埋め合いを束の間味わうことを良しとしただろう。
もう、カンナは重かった。自分の中の重たさに彼はいつまで耐えられるか分からなかった。
彼は洗面所に向かった。冷水が顔を洗えば、感情も皆落としていってくれる気がした。あれは夢だ、幸せな夢だと言い聞かせて、スーツに着られれば、もう彼は従順な社会人だった。感情を捨て、生きるためだけに動く、虚しくも幸せな人形。少しばかり長い夢を見てしまったのだと思えば、流れる涙もないことに気付く。
相手のいない、簡素な食事。定番だった菓子パンとコーヒーだけの朝が一糸乱れぬルーティンとして帰ってくる。
隣にカンナを幻視するようなことはなかった。ただ無機質な壁だけが彼を見つめ返す。
パタリ、と玄関のドアを閉めればおしまい。
赤間カイは彼の世界から、カンナを締め出した。
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