第35話 純夜

 カイの言葉にカンナは返事をしない。ただ俯くばかりで、普段と様子が違うのに気付いた彼はそれ以上問いかけることはなく、ドアを開けた。

「まあ、入れよ」

 彼女を待つこともなく、カイは部屋の奥へと進んでいく。だが、いつまでもついてくる気配がないのを感じて、再び外に出た。

 そんなとこに突っ立ってられたら困るんだよ、とでも言ったのだろうか、少し前までの彼なら。だが今の彼がかけたのは、「冷えるぞ」というやさしい言の葉だった。カンナはようやく僅かに頷いて、彼に従った。

「とりあえずシャワー浴びて来い。そのままだったら風邪引くから」

 裾が色濃くなったコートを脱ぎながら、彼はいたっていつも通りに振る舞う。

 何があったかについては、それとなく察しがついた。外傷なんかは見当たらないが、母親に何かされたのだろう。カイは初めて逢った日にカンナが口にしたことを思い出した。

〝ママに会ったら、またタバコ、押し付けられそうだから〟

 彼女とはそれなりに多くの時間を過ごしてきた。その間に腕や背中を目にすることはしばしばあった。そこには火傷の痕はまるで見当たらなかったから、きっとあの発言はその場しのぎの思いつきだったのだろうと思っていた。あの場でカイの同情を誘い、なおかつ保護しなければならないような気にさせる十分な言い訳にすぎないと考えることもあった。だがその一方で、カンナが母親に対して恐れに似た感情を抱いているのも事実に思えた。

〝もう働けって、ママが。ママもそうだったから、必要ないと思ってるの〟

 その言葉は単なる価値観以上の意味を持っていたのかもしれない。その時のカンナの表情までは思い出せなかったが、きっと、単なる親への反発とは違うものを乗せていたはずだ。

「ほら、いつもみたく自分家みたいに風呂場行ってきな」

 カイはカンナの頭の上に手を置くと、ぽんぽん、と二回軽く叩いた。

 小さな声で「うん……」と返すと、カンナはカイの言うとおりにした。

 彼女がいなくなると、カイは玄関に無造作につくねてあったカバンをリビングに移した。これを取りに家に戻って、母親との間に何かがあったのだろうと理解した。傘を持つ暇もなかったのだろう、濡れそぼった姿が痛ましさを訴えていた。

 彼は洗面所にタオルを取りにいった。風呂場のドアの向こうではシャワーの音がする。

 もしかして手を切ったりしていないよな、なんて考えて、「大丈夫か?」と尋ねた。返事はない。

 不安が現実になるような気がして、カイはドアを開けてしまった。

 驚いたカンナがこちらを向いて、シャワーがもろにカイのシャツにかかる。

 あまりの事態に呆然とするカンナは、そのまましばらく固まっていた。

「えっ、な、何」

「あ、いや、悪い、その、様子変だったから、大丈夫かって聞いたのに、お前、返事しないから……」

 その言葉を耳にしてようやく、彼女はうんうんと事情を理解したようだった。一度蛇口を止め、彼に背を向けて「水音で聞こえなかっただけ」と言った。

「だ、だよな。俺、どうかしてた」

 ドアを閉めると、カイは大きく息を吐いた。

(あんな顔されたら、誰だって心配はするよな)

 まともにカンナの裸身を目にしたのはこれが初めてかもしれない。女慣れした彼はドキリとすることはなかったが、こんな状況でも彼女が均整の取れた肢体をしていることはさっと見抜いた。

 彼は濡れたシャツを脱いで洗濯機に投げ込んでから、彼女の替えを用意してその場を離れた。いつからか彼女の衣服は何着か常備してあった。

 それからテレビを点けて、この部屋の重苦しい空気を少しでも軽くしようと試みた。今さら気を遣うのも変な気がしたし、深く突っ込むこともしないまま適当に夜を明かすことに決めた。

 彼女は出てくると、最初に「ごめん」と口にした。

「気にすんな。今まで散々使ってんだから、今さら謝る必要もねえよ」

「ううん、そうじゃなくて……」

「やめとこうぜ、神妙な空気にすんのは」

 目を伏せる彼女にこれ以上何か言わせる前に、カイは明るいトーンでそう言った。暗く沈んだ心にしっとりと向き合う方法は彼には分からなかった。目をそらし、目を瞑り、やがて来る朝と現実と義務に向き合うことで、気が付けば和らいでいる、それがカイの痛みとの向き合い方だったから。

「夕飯何か食ったか? まだなら何か用意するが」

「食べてないけど……食欲ないかな」

 カンナはカイの隣に腰を下ろした。膝を抱えて頭をもたせかけると、湿ったままの髪が重たく垂れ下がった。

「そうか。ま、小腹が空いたら適当に――」

「良いよ、気を遣ったりしなくて」

「俺には似合わないか」

「ううん、そんなことない。顔も良いのに性格まで良くなったら、ドキドキしちゃうから」

「バカ言ってるくらいなら、大丈夫そうだな」

「うん、大丈夫」

 そう答えつつも、カンナはもう少し膝行いざってカイの左肩に体重を預けた。

「じゃ、ないかも。ごめん、ちょっとだけこうしてても良い?」

「勝手にしたら良い。いつもみたく」

 言葉を持つ唯一の動物なのに、肝心なところで言葉を使えないのは、自分がひどく不完全な人間だからなのだろうと、心地良い重みを感じながらカイは思った。

 適当に選んだ洋画を見ている内に眠くなったのか、カンナはベッドに寝転がったが、「ねえ」とカイを呼んだ。

「一緒に寝て」

 カイは何か言ってやろうと思ったが、とろんとした瞳の真っ直ぐでさみしげなのを目にして、全てを持っていかれてしまった。後ろ髪に少し手を当てて溜息を吐くと、彼は背を向ける形でベッドに入った。その背中に、カンナは膝を折り畳んだ姿勢でぴたりと身を寄せた。


 カイが次に目を開けると、もうカンナはいなかった。

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