第33話 歪んだ母親、歪みきらない娘

 帰りの電車で、カイは窓枠から張り出した飲み物置きに肘をついて目を閉じていた。美しい貝殻を見つける勝負の結果はといえば、美醜の判別という曖昧なものにおいて男が女に敵うはずはなかった。

「さっき、なんで名前の話してくれたの」

 カイは薄目を開けて、そっちこそなんで今頃、と思った。

「何となくだ」

「そう」

 駅の自販機で買ったホットレモンの小さなペットボトルを両手で握りながら、カンナは少しだけ視線を落とす。

「私の漢字も知りたい?」

「いや、別に」

 カイはしまったと感じたが、カンナは薄い笑みを浮かべただけで、自分に興味を持たれないことに怒りはしていないようだった。

(何が言いたいんだ、こいつ)

 そう考えてから、互いの名前を教え合った時、カンナだと口にするのに少しの間があったことを思い出した。きっと彼女もまた、名前に何かしらコンプレックスを抱いている、そんなふうに覚えたのだった。

「俺が言ったからって、お前もそうする必要があるわけじゃないからな。お前が嫌なら、俺は別に聞きゃしねえよ」

 そう言ってカイは再び目を閉じた。

 カンナは「うん……」とこぼすだけで、それ以上電車内で話が交わされることはなかった。

 最寄り駅の改札を出る頃には、空には無数の星々が輝いていた。

「来るのか? 家」

 その問いを口にするのに、カイはもう抵抗感を抱かなかった。相変わらず彼女を特別な何かだと思うことはないが、二人の現在の形については認めていた。

「ううん。今日はちゃんと自分帰る」

「そうか。なら、気を付けて帰れよ」

「ありがと」

 手を振るカンナに、カイは何年かぶりに手を振り返した。肘を脇腹に押し当てて、手首だけを揺らすという、恥ずかしさを最大限抑えながらではあったものの、それは彼が思う以上に彼女の存在を肯定している証だった。


 悪い予感は玄関の靴を見た時には生まれていた。脱ぎちらかすようにしてある時は、母親の機嫌が悪い時だ。普段ならそれを目にしただけですぐに元来た道を辿って逃げ出すのだが、今日はそういうわけにいかなかった。明日の授業は出席日数がギリギリで、これ以上の欠課が認められない。昨日は家に帰ってきていたために、鞄やら何やらを部屋に取りにいかざるを得なかったのだ。

 どうか母親に気付かれることなく再び外に戻れますように、という願いもむなしく、キャミソール一枚の彼女が顔を見せた。髪はボサボサで、首筋には淫蕩な証がありありと残っている。

「チッ、お前かよ……」

 鍵の開く音を聞いて、彼氏が来たとでも期待したのだろうか、尖った目は本来なら娘に向けられるはずのないような敵意を含んでいた。

 このような状態の彼女とは関わらないのが何よりだと思って、階段をのぼって逃げようとした矢先、彼女が「オイ!」と叫んだ。怒鳴り声一つに、カンナは酷く萎縮する。

「ちょっと来い」

 胃がキュッとしまり、とてもその場を動けそうにないのに、カンナの足はたどたどしくもはっきりと彼女の方へ向かってしまう。

「親の顔が見えたのに、お前挨拶もナシか? 親を何だと思ってんだよ、お前を生んでやったお母様だぞ!」

 頭ごなしに叱りつける彼女からは、安酒のアルコール臭が漂ってくる。今日の彼女に何があったのかは分かるはずもないが、こうなった以上、矛先がカンナに向くことだけは何よりも明白だった。

「なあ、聞いてんのかよ、お母様だぞ、お前の! お母様だぞ! アタシは!」

 眉間にシワを寄せながら、カンナは目をギュッと瞑る。ただひたすらに、「ごめんなさい」を繰り返した。

「本当、目障りだ、お前。さっさとアタシの前からいなくなれ」

 急に気分が変わるのも常だ。シッシッ、と追い払うように彼女は手を振った。カンナは一言も口にすることなく、ただ解放された事実だけを心の救いにして自室に向かった。階段を上るのに音は立てなかった。何が母親の地雷を踏み抜くかしれない。

 部屋のドアをそっと閉めたカンナは、膝をついて堪え続けていた嗚咽を漏らした。涙の勢いが涙腺を果てしなく熱くした。

 昔は大好きだった。ママと呼んでどこまでも愛していた。だが彼女は夫と毎夜のように口喧嘩をするようになり、やがて口で勝てなくなった夫に手を出された。それが最大の理由となって二人は離婚した。カンナは父親のことも愛していたが、当時哀れに見えてならなかった母親のもとに残ることを選んだ。けれどそれこそが、カンナにとっての悲劇の始まりだった。

 彼女もまた一人の女で、女は立ち直りが早いことを、カンナは知らなかった。離婚から間もなく、彼女は彼氏を作って、家を空けることが多くなった。ネグレクトと精神的な虐待が始まったのはその頃からだった。そして同時に、彼女は一児の母親であることより、一人の女であることを優先するようになってしまった。幸か不幸か、カンナは自分の身の回りのことをそれなりには出来る年頃だったために、彼女からすると中途半端に手間のかかる邪魔な存在に映った。

 それでもカンナが母親を憎みきれないのは、逃げ出しきれないのは、彼女が常にそうではないからだった。優しかった頃の一面を、時たま見せる。機嫌の良い時には、出かけ際のカンナに同一人物とは思えないような温かい声で「いってらっしゃい」と言うのだ。

 親からの愛情は歪んでも、親への愛情は歪みきらず、だからカンナは此処を捨てていくことが出来なかった。

 心の表層はもう限界だと訴えているのに、深層は束の間の逃亡を考えるばかりで、今日もまた、明日必要な荷物だけをまとめさせるのだった。

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